【枕草子】いつもの浦
『枕草子』謎の一首
しほの満ついつもの浦のいつもいつも
君をばふかく思ふはやわが
『枕草子』21段(※)「清涼殿の丑寅の隅の」に登場する和歌である。
(※)段数は角川ソフィア文庫2024年3月刊 河添房江・津島知明訳注本による
「潮が満ちるいつもの浦のように、いつもいつもあなたを深く想っているのは私です」
という意味になるだろうか。角川ソフィア文庫1979年8月刊 石田穰二訳注本では「恋歌」とされている。
しかしこの歌は、作者も出典も明らかでない。数百年にわたり無数の研究者が調べ尽くして、それでもなお全くわからないということだろう。
『枕草子』では中宮定子の話の中にこの歌が出てきた、と記されている。
藤原道隆は984年に従三位に叙されている。その年のうちに円融帝は退位しているので、984年の出来事である。その時点では原典となる歌集が存在していて、道隆はそれに目を通していたのだろう。
時系列順に整理
この段で取り上げられている事項を時系列順に整理してみる。
(1)藤原道隆が若かった頃、歌集Xに目を通し
しほの満ついつもの浦のいつもいつも
君をばふかく思ふはやわが
を覚える。
(2)984年、道隆が三位中将に任ぜられて内裏に上がった際、円融帝から何か和歌を書くように命じられ、歌集Xに出ていた歌を思い出して、その一語を変えて
しほの満ついつもの浦のいつもいつも
君をばふかく頼むはやわが
と詠んで、帝にほめられる。
(3)道隆が藤原定子を育てる折、この一件について教える。
(4)円融帝による詠歌命令から10年過ぎた994年春、花盛りの桜の枝をたくさん挿した花瓶が飾られている清涼殿上御局(うえのみつぼね)で、一条帝同席のもと、中宮定子が女房たちに課題を出す。
(5)定子は引き続き講評として(2)の円融帝と父・道隆のエピソードを女房たちに話す。それを聞いた清少納言は「若い子だったら、多分あのようには書けそうにないわね。(私は年を食っているから、何とか切り抜けられたけれど)」と思いつつ、冷や汗がにじみ出るような心地がした。
絆が固められた日
私はこの話を読んで、「定子と清少納言の、生涯ゆるぎない絆がこの一件で固められた」と思った。
定子から見れば、自分の想定以上に完璧な答えが返ってきた形になる。単に自分への忠誠心を示してくれただけでなく、父・道隆と夫の父・円融帝とのやり取りもリスペクトしている。加えて、引用した歌は一門の先祖・藤原良房が自分の娘を花になぞらえて詠んだもの。その詞書(ことばがき)にはこの日の上御局と同様、花瓶に桜の花が挿してあると書かれている。感激もひとしおだったろう。文字を見て清少納言が書いたものと、すぐに気づいたのではないか。
清少納言はこの数ヶ月前、993年冬に後宮出仕を始めたと考えられている。初出仕の時こそ緊張しきりで伊周にからかわれていた清少納言だが、少しずつ仕事に慣れていった時分にあたるだろう。定子も「この人、何だか私と気が合いそう」と感じ始めていたと想像される。そこにこの名答。清少納言の博識と機知、自分を心からリスペクトしてくれるまごころを、はっきりと感じ取ったのではないか。
対して清少納言は、定子が円融帝と道隆のエピソードを話した時に心底びっくりしただろう。歌を提出する時点では「とにかく何か差し上げなければ」という一心で、古今和歌集に出ていた春の歌、良房卿の歌、桜の花瓶が飾られている時の歌とは思い出せても、それ以上のことまで思いを至らせる余裕はなかったと見る。一条帝と定子がお揃いの姿にボケーッと見とれていたらいきなり「古歌を書きなさい」と言われ、墨挟みの継ぎ目を外してしまうほど慌てていたのだから。現代の野球に例えれば、目をつぶって速い球にバットを振ったらホームランになってしまったようなもの。
最初伊周に甘えようとして断られたのも、清少納言にしては無我夢中でも、定子の目には良房の故事をふまえての仕草と映り、「本来兄が詠むべき歌なのに、少納言が代わりに詠んでくれたのね!」と、さらにポイントが上がる。
清少納言は「年の功」だと謙遜しつつ、「もう、ボケッとしてはいられない。見とれるだけの段階は卒業して、この中宮様に誠心誠意お仕えしないと」という意気込みを、内心新たにしただろう。一方定子は「お上と清少納言がいる限り、私は大丈夫」という手ごたえをつかんだのではないか。
頼りにしてほしかった
「いつもの浦」の歌に戻る。
円融帝は”いつでも朕を頼ってほしい”という思いを日頃から強く抱いていたのではないだろうか。先帝の実兄・冷泉帝には問題行動が多く見られたとされ(記録されている逸話を見ると、精神疾患というよりも多動性知的障害者の特徴が窺える)、それが藤原氏と源氏(醍醐源氏)の抗争に発展したことに心を痛めていた。円融帝自身、当初は「一代主」(ショートリリーフ)と見られていて、自らの立場の不安定さを憂う局面もたびたびあったと想像できる。
「ただ朕を思うだけでは物足りない、頼りにしてほしい。臣下とともに、この国をよくして行こうではないか。」
現代でいう”きょうだい児”としての願いも含まれていたと、私には思える。
その円融帝の思いを汲む和歌を詠んだ殿上人が、反りの合わない藤原兼家の嫡男だったというのは皮肉ではあるが、帝は素直に嬉しかったのだろう。道隆のほうも、円融帝を悪く思っていたらこの話を定子に教えようとしなかったはず。
島根県?それとも?
いつもながら長すぎる前置きを経て、核心に入る。
「いつもの浦」は、実在する海岸なのだろうか。
「いつも」がつく地名としてまず思い浮かぶのは「出雲」。言うまでもなく島根県である。もちろんその可能性は高い。出雲大社近くの稲佐の浜、日御碕、さらに汽水湖である宍道湖などが思い浮かぶ。
一方、出雲国以外にも「出雲」という地名がいくつかあるという。主に古代史の分野で注目する人がいるらしい。
さらに調べていったら、「出雲」を「いつも」と読む地があるという情報をつかんだ。
和歌山県東牟婁郡串本町出雲。本州最南端、潮岬の東側にある。串本駅から南へ約3.5km、橋杭岩から約5km。紀伊大島との間で小さな海峡をなしている。
19世紀前半に紀州藩で編纂された「紀伊続風土記 牟婁郡」によれば、由来は明らかでないとされている。「イツモ」と清音で称するから、出雲の意味ではないだろうとコメントしている。
一方、12世紀末に出雲大社の禰宜が当地に移住したことが由来とする説もある。これに従えば藤原道隆が生きていた時代よりも後になるが、確証的ではない。
あくまで素人の直感にすぎないが、串本の「いつもの浦」を詠んだ和歌ではないかと思う。
・島根県の出雲大社に関わる由来ならば「いづも」と称し伝えるはずである
・日本海側の島根県は大潮の日でも潮位変化が少ないが、太平洋に面する和歌山県では潮位変化が顕著に見られる
・「しほのみつ~」と声に出して読めば、「しおのみさき」にも通じる響きになる
・南紀、熊野の風物は平安中期の貴族社会でよく知られていて、『枕草子』にも「音無の滝」(現在の和歌山市雄ノ山峠とも言われている)などの用例がある
を根拠としたい。紀州の海岸沿いには紀勢本線が作られているが、鉄道の時代を迎える前は熊野古道の「大辺路」で、海路との併用、もしくは海の景観を愛でつつ熊野詣に赴く人々が歩いた道ができていたという。平安時代はあまりメジャーなルートではなかったので、歌枕として使われた例が他に見られないのではないか。
もし紀州牟婁郡の「いつもの浦」を詠んだ歌とすれば、出雲大社とは関係なく、平安時代には「いつも」の地名が既にできていて、後から「出雲」の漢字があてられたことになる。
その場合、”心身を浄める”意味の「斎」(いつき、いもう)との関連も視野に入るだろうか。今となっては証明のしようもないけれど。
歌集Xのゆくえ
「いつもの浦」の元歌について、少なくとも詠んだ人と藤原道隆はその典拠を知っている。想像だが、大辺路経由で熊野詣に出かけた貴族が「いつもの浦」に潮が満ちる様子を見て詠み、私家集Xに載せたのではないか。その人は道隆の知り合いで、個人的に渡したと考える。もしくは、道隆よりも前の時代に詠まれた和歌が伝わっていたか。
この歌は公式の和歌集に採択されるほどのものではなく、歌集Xは詠み人の家が断絶したか何かで散逸してしまったのだろう。
しかし、道隆が円融帝の御前でこの歌の一語を変えて披露して、それをほめられ、後日娘・定子の入内教育の一環として教えたことから生き残りの道が開ける。10年後、定子が女房たちの提出歌に対する講評としてこの歌の例を引用して、それを聞いた清少納言が後年『枕草子』に書いたから、1000年の時を超えたのである。
現代でいえば、もともとあまりヒットしなかった歌謡曲アルバムに収録された1曲が後年たまたま有名メディアで取り上げられる現象に相当するだろうか。
平安時代やそれ以降の文学作品で、既に内容が失われ、現代に伝わっていないものは無数にある。西洋のクラシック音楽や美術品でも、いつしか消えてしまった作品は決して少なくないだろう。ある時代に盛んだった文化のもとで生み出された多数の作品のうち何が後世に残り、その時代の色合いを代表していくか。「いつもの浦」の歌の例は示唆に富む。