大河ドラマ館 はしごの記(石山・武生)
近年放送される大河ドラマでは、主人公ゆかりの土地で「大河ドラマ館」が作られている。大河ドラマは何だかんだと言われても、今なお多くの人が見る、注目度の高いコンテンツである。舞台として取り上げられる地元にとっては、自分たちの町に広く関心を持ってもらうために格好の手段なのだろう。様々な町で誘致活動が行われていることも頷ける。
『光る君へ』でも、紫式部ゆかりとされる地域で大河ドラマ館が開設されている。平安時代が舞台で、ドラマとしての斬新さもあり、昔からの大河ファン層以外にも広くアピールできるポテンシャルを有しているがゆえに、斬新な企画が立てられる。
ちょうど中国地方に出かける計画を立てていたので、その帰途を使い、滋賀県大津市石山と福井県越前市で開催されている大河ドラマ館をのぞいてみた。
皇后定子鳥戸野陵
宿泊した神戸市の舞子を夜明け前に出立、快速米原行きに乗車する。電車が須磨の海岸に出ると、海があかつきの色に染まり始めた。生駒山の方角に紫だちたる雲がたなびいている。まさしく「春は、あけぼの」。
須磨は『源氏物語』の舞台のひとつでもある。歌枕としてはその時代既に使い古し感さえあったかもしれないが、ベタであるがゆえに「都落ち」をイメージさせるには最適と、作者は考えたのか。紫式部自身はおそらく行っていないだろう。
六甲道のあたりで太陽が顔を出した。この日は強い冬型が予想されているが、まずまずの日和になりそうで安堵する。
京都で奈良線に乗り換え、東福寺で下車。通勤通学の人たちでごった返している。大河ドラマ館に行く前に、ぜひ見ておきたいところがある。
駅前の細い路地から伏見街道に出ると、昔ながらの商店街が続いている。Googleマップコメントで道順が詳しく説明されていて、その通りに歩く。
花屋の角の交差点を右折して、住宅街に入る。剣神社の脇が三叉路になっていて、右側の谷間へ下る狭い道に進み、小さな橋を渡る。今は水の気配さえないが、かつては渓谷でもあったのだろうか。
再び上り坂になるあたりに「鳥戸野陵参道」の石碑が建っていた。
「とりべの」は通例「鳥辺野」と書くが、ここでは「戸」の文字をあてている。あたり一帯は皇族方、帝の妻子の陵墓が多い。
石段を昇る。宮内庁の職員さんが書いたとおぼしき立て札がある場所で左折する。
さらに数十段上ると、石造りの鳥居が見えてきた。
一条天皇皇后定子陵墓である。
『枕草子』も『源氏物語』も、藤原定子なしには存立し得なかった。平安二大文学作品を生み出す原動力となったお方である。当時の価値観で、どれほど魅力的な人だったろうか。
門前に立つ。帝の后だから、埋葬には最大限の敬意が払われたであろう。後年、都は長い間戦乱の不安と隣り合わせになったが、皇族の陵墓は文字通りの聖域だったのだろう。あくまで伝説でしかない古代の墳墓とは異なり、藤原摂関家の時代ならば記録も残されている。
正確にこの地に埋葬されているかどうかは確証が取れていないそうだが、この付近にご本人が眠られていると思い至った瞬間、1000年の時が短絡して、まぶたに涙が滲んできた。
3度目のお産(媄子内親王)に臨まれる際、どれだけ心細かっただろう。どれほどの痛みに苦しまれただろう。無事生まれたら帝や御子たちと優しく穏やかに過ごしたいと、どれほど願っただろう。
帝の后ならば、当時でも火葬に付すことはできた。が、定子はあえて土葬を望み、その意思に沿って霊屋が建てられ、棺が納められたと伝えられている。都に大雪が降った日という。
私は目を閉じて、ひたすらに手を合わせ、深く一礼した。
定子が一条天皇に宛てて、最後に贈った和歌である。
現代では「すみれ色の涙」という歌があるが(1968年/ジャッキー吉川とブルーコメッツ)、1000年前に「涙の色」を詠みこむほどに巧みな色彩感覚があったとは。しかも、淋しさゆえに愛して憎んだ末の別れを歌う「すみれ色の涙」とは真逆の、愛する人を一途に想う尊い一首である。
陵墓前のスペースでは、砂利が石庭のようにきれいに整えられている。係の人が頻繁に掃いているのだろう。1000年が過ぎ、そこらの下衆(平民)でも貴族なみの暮らしができる世となっても、敬意が絶えることはない。
標柱によれば、他に平安時代中期の后6名が埋葬されているという。皆さん火葬に付されている。よく見れば「円融天皇女御尊称皇太后詮子火葬塚」と小さく記されている。定子より後に没しているし、朝廷より贈られた称号に従うが故だろうが、当時の貴族社会が二人をどのように見ていたか、その本音が時を超えて伝わってくるかのようでもある。兼家パパのお見舞いに来たかと思いきや、枕元で”早うくたばれ、楽になれ”みたいなことをささやくような人だから…(違います)
ファーストサマーウイカさんは大津市のイベントに出席した際、「清少納言はどこで最期を遂げたかわかっていなくて、お墓もないので、お仕えしていた定子さまにはどうしてもご挨拶を差し上げたくて、お参りしてきました。」とお話していたが、ここで間違いないだろうか…と思っていたら、ご本人が旧TwitterのXにまさしくここ、鳥戸野陵の写真をあげていた。ドラマの世界が一気に身近に感じられた。
石段を下りる途中、整備する係の人なのか、作業服姿の人とすれ違った。「おはようございます」とあいさつを交わす。
いつしか雲が遠のき、朝の青空が見渡せる。お参りに来たお礼を賜ったのだろうか、清々しく温かな心地に包まれた。
石段の入口がある坂道からは、木立の向こうに京都タワーと京都駅ビルが見渡せる。京都駅周辺がここから見えるということは、鉄道開通時の社会的位置づけを反映している。
京都駅は1877年、官設鉄道の大阪-京都間開通に伴い、七条大路と八条大路の中間、烏丸塩小路に建設された。地元の人は「七条ステーション」と呼び、「鉄道唱歌」(1900年)の歌詞にも使われた。平安京のほぼ南東隅にあたる。立地選定において、市街地の中心部は既に建物が密集していて土地買収困難だった、大津方面への延伸時迂回にならないように、などの理由が挙げられているが、長年葬地とされてきた鳥辺野の近くならば人家がほとんどなく、広大な土地が容易に確保できるという条件も働いたと想像する。
その時代は東山・逢坂山の下をまっすぐ通る長いトンネルを掘る技術がまだなかったため、大津への延長(1879年開通)は神戸方面から見て、京都駅の先で右折して鴨川を渡り、伏見稲荷大社近くに停車場を置き、東山の南側を通り旧・山科停車場に至り、山科の里を北上して逢坂山を短いトンネルで抜けるルートが選定された。すなわち現在の奈良線京都-稲荷間は、京都から東へ向かう幹線の一部として建設された。それは奇しくも、鳥辺野を巧みにかわしている。1889年に東海道本線が全通すると新橋(後の汐留)行きの列車もここを通りはじめ、1921年に東山・逢坂山トンネルができるまで長距離輸送を一手に担った。今の奈良線や京阪電車の音は聞こえてこないが、蒸気機関車の時代はこの陵墓まで汽笛の音が響いていたであろう。
東福寺駅への帰り道、住宅街をよく見るといかにも旧家といった構えはほとんど見られない。廃屋が一軒ある他はいずれもここ数十年で建てられたとおぼしき家屋が並んでいる。伏見街道の商店街では局番1桁の電話番号を記した布団店の看板を見かけて、それなりの歴史を感じたが、戦後の高度成長期半ばごろまで、表通り以外は滅多なことでは立ち入ってはいけないところという認識が地域で共有されていた気配がうかがえた。
なお、東福寺駅は1910年に京阪電気鉄道により開設された。脇を通る国鉄奈良線の駅設置は戦後の1957年である。
奈良線で京都駅に戻り、東海道線に乗り継ぎ石山で下車、京阪石山坂本線に乗り換える。JRの広い構内をまたぐように2両編成の電車がやってきた。
乗車すると、いつか見たような車内のたたずまいを感じた。もしかして、かつて京津線で準急として使われていた、路面電車上がりの車両ではないだろうか。
5分ほどで終点石山寺駅に到着。屋根も手すりも紫色に塗られた”パープルタウン”駅である。
駅を出ると目の前が国道422号線、その向こうに瀬田川が流れている。名神高速道路や新幹線の線路も近い。瀬田川に沿って国道を南に、およそ10分歩いたところに石山寺の山門がある。歩道には『源氏物語』に登場する花が植えられている。今は全く咲いていないが、季節を改めるときっと綺麗なのだろう。
道綱 道綱 道綱
大河ドラマ館は石山寺の境内「明王院」に設けられている。普段は寺院関係者の集会所として使われているのだろうか、小ぢんまりした施設である。入場料は600円、入口で靴を脱いであがる。ブーツをはいている人はご注意。
入ると正面に”五節の舞姫”の衣装が展示されている。紫式部自身は頼まれてもやりそうにない人と思われるが、ドラマでは主役に花を持たせたいのだろう。
ドラマでまひろは、地味で華がない容姿と自ら認めている。(が、人に言われると傷つく。)初めてまひろの容姿についてほめた人は、あの藤原道兼である。それゆえに源倫子の代わりに舞姫役を引き受けたということにしているが、馬子にも衣装とまでは行かなかったのだろうか。
ドラマの「五節の舞」は、イントロの弦(琵琶か?)の響きがとても良かった。笙から始まると、いつもの雅楽という印象になるところだったが、弦の音が先導することにより「帝にお納めする荘厳な儀式」感が一層際立った。
『枕草子』には「果ての夜も、おひかづき出でも騒がず」(最終日の夜も、舞姫を背負って出るという騒ぎもなく)という一文がある。清少納言が見た時は無事に済んだのだろうが、舞姫が緊張や重すぎる衣装で体調を崩して失神することは実際にあったようである。
衣装展示の向かい、入口脇にはまひろとききょう(清少納言)のパネルが置いてある。ウイカさんのサイン入り。オープニングセレモニーに出席した際、その場でサインしたという。
ウイカさんは会場内で上映されている、大河ドラマ館用特別映像にも出演していた。「紫式部と清少納言は実際に会っていないとか、仲が悪かったとか言われていますが、出会っていたら”初めて同じ土俵で話ができる人”として、連帯感が生まれていたのではないでしょうか」といったお話をしていた。
出演者紹介パネルで、ようやく定子さまのご尊顔を拝する。
この方ならばイメージが大きく崩れる心配はなさそうだが、良くいえば豪快な、悪く言えば情け容赦のない(道長の未熟ぶりの表現も、そこまでやるか!と思わせる)大石先生の脚本で悪く描かれないよう、今はただ祈るのみである。
他に台本や、まひろが書いた後撰和歌集の和紙が展示されていたが、人物相関図に最も人だかりができていた。2~3人であれこれ話しているグループも多い。藤原姓が多く、姻戚関係が複雑な物語なので、少しでも覚えておく手がかりにしておきたいと見受けられた。私としては、清原元輔も出してほしかった。漢詩の会1回限りのご出演なのだろうか。藤原実資の妻・桐子も出してほしかった。実資が愚痴を言うたび
「日記にお書きなされませ!」
「書かぬ!」
の応酬は、長年連れ添ってきた感がにじみ出て、ほっと一息つける場面だった。
出口近くには出演者サイン色紙が展示されている。(サイン色紙と映像は撮影不可、他の展示物は撮影可能)その中に
「道綱 道綱 道綱」
と添え書きしている人がいる。見た瞬間吹き出してしまい、笑いをこらえるのに大変な思いをした。
とても可愛い猫の絵を添えて「こまろも見てね」と記している色紙もある。小麻呂(こまろ)は左大臣家で飼っている猫で、ハードな展開が多い中貴重な癒しとして、SNSで人気上昇中。決してお飾りではなく、時に物語を大きく動かす重要登場猫物でもある。
色紙コーナーはかなり余裕がある。後半の出演者にもいずれ書いてもらう予定なのだろうか。
お寺の集会所?を利用しているので、スペース上の制約がきついことは否めない。いずれ展示替えを予定しているのかもしれないが、ここだけを目当てにしていくと、人によっては物足りなさを感じるかもしれない。サイン色紙で笑いを取る人がまた現れないだろうか。
一旦外に出て、隣の世尊院で開催されている「恋するもののあはれ展」を見る。こちらは『源氏物語』の登場人物を紹介しつつ、現代のラブストーリーに置き換えた可愛らしいイラストでわかりやすく解説する趣向。よく見ると喫茶店の窓ごしに通る車両が京阪石山坂本線で、さすが地元。関東の人にはまず出せないアイデアだろう。
平安時代の貴族が使っていた色や、季節ごとの重ねのサンプルも展示されている。いくつかの色の名刺サイズカードが置かれていて、おみやげにできる。当時使われていたお香を体験できる壜もあった。ファーム富田などで体験できる西洋アロマ系とはひと味違うかおりがした。
そういえばライラックやラベンダーなど、西洋の紫色の花からは紫色の染料が取れない。ラベンダーの精油は淡黄色である。日本で栽培されるムラサキから取る紫色の染料を貴重なものとする文化は、世界的にも特殊なのかもしれない。西洋や中国の紫色は何から作られていたのだろう。
会場を出ると雪がちらちら舞っていた。よいふんいきだが、人出が増えてきた。もっといろいろ見て回りたいが、これから越前に向かうため、お寺を後にした。
紫式部は石山寺の本堂に参籠して、琵琶湖を照らす月を見つつ『源氏物語』の着想を練ったと伝えられている。東西から山が迫る形の湖水に、見ることもない須磨の海辺を思い浮かべたのだろうか。
石山寺本堂は皇族や上級貴族、高僧しか入れない場所のはず。下級貴族出身の紫式部が本堂の部屋を使えたのは、やはり相応の権力の後ろ盾があったと考えるほうが妥当だろう。
平和堂石山
京阪電車で石山駅まで戻る。東海道線に乗り換える前にもうひとつ見ておきたいものがあるので、近くの大型スーパーマーケット、平和堂石山へ足を運ぶ。ここの3階で『光る君へ』登場人物のパネルが展示されている。
できれば中関白家関係者(藤原道隆、伊周、定子、清少納言)は並べて展示してほしかった。
平和堂石山でのパネル展は3月7日で終了したという。以後年末まで滋賀県内各所および東京都内のアンテナショップを巡回するそうで、NHK大津放送局ホームページで予定が案内されている。
父を許し、自らを赦した先に
石山を後にして米原へ。12時56分発の特急「しらさぎ」に乗り換える。名古屋始発の「しらさぎ」はここで方向転換するので、車内では乗客が座席を回転させている。久しぶりに見る光景で、かつての特急「白鳥」(新潟で方向転換)を思い出す。
北陸本線に入り、余呉のあたりでは窓一面に雪が舞ったが、薄日もさしていて、大粒の雪が光って見える。程なく雪は止み、北陸トンネルを抜けると青空が見えてきた。この日「福井県は一日中雪で、かなり多く降る」と予報されていたので、お天気運の良さに感謝する。
日野山が見えてくる。名前さえ知らず、列車内でぼんやり眺めるか眠っているうちに通り過ぎていたこの山もまた、紫式部にゆかりがあるという。
米原からおよそ50分、13時47分着の武生で下車する。ここに降りるのは34年ぶり。かつては「福井県武生市」で、菊人形と越前おろしそばを名物としていたが、市町村合併により今は「福井県越前市」と称している。越前国府が置かれた地で、紫式部の父・藤原為時は996年に国司として赴任している。下向する際には紫式部も同行した。娘はおよそ1年で都に戻ったが、為時は約18年間この地を治め、辞任した翌年に世を去ったという。近年国府があった場所、すなわち為時が勤務していたオフィスの跡が発見されたそうで、今では「紫式部の町」を大々的にアピールしている。
大河ドラマ館へはシャトルバスが運行されているが、発車まで30分以上あるし、せっかくなので街を歩いていく。雪はまばらに残っていて、路面がぬれているところも若干あるが、歩行に支障をきたすほどは積もっていない。陽射しが強くなり、歩いているうちにうっすら汗をかいてきた。およそ25分で武生中央公園に到着。敷地内のミュージアムが大河ドラマ館にあてられていた。
こちらも入場料は600円。ファーム富田のスタッフを思わせる、紫色のジャンパーを着た係の人たちが親切に案内してくれる。靴を脱ぐ必要はない。新しくできた広い建物なので、石山よりも開放感がある。
入口で越前市特製バージョン『光る君へ』パンフレットをいただいた。これに掲載されている登場人物紹介図はひときわわかりやすくまとめられていて、重宝している。
入場すると為時さんとまひろのパネルがお出迎え。その間に入って”スリーショット”の記念撮影を希望するお客さんもいて、スタッフの人がこまめに声をかけていた。
オープニングセレモニーには藤原為時役の岸谷五朗さんがゲストに招かれたが、岸谷さんはまひろのパネルを抱えて登壇して
「こんにちは、吉高由里子です。」
とギャグをかましたらしい。
あのー、越前編では為時さんが主役なのだから、そう卑屈にならなくとも…。
特別映像(撮影不可)は岸谷さんと大石先生のインタビュー、および越前和紙の紹介で構成されている。
”為時家は現代と同じように家族の愛情があふれた家だったが、あの時代それはとても珍しいことだった。まひろはもともと明るく朗らかな子だったが、あの一件(母の死)から暗くなってしまう。為時は頑固で世渡り下手だから家も貧乏になって、余計親子関係はぎくしゃくしていた。が、まひろはいろいろな経験をして、やがて父を許し、自分自身を赦し、越前に来ると改めて父を尊敬するようになる。しかしその時、父親は既にあらゆる面で子に追い抜かれているのですよね。”
といったお話をしていた。石山では”文学者・作家”としての一面にスポットを当てていたが、こちらでは”親子の物語”としての側面を強調するねらいが見て取れた。
登場人物紹介パネルコーナーにはまひろの夫となる藤原宣孝も掲げられている。
ここでも定子さまのご尊顔が掲示されているので、改めて手を合わせる。
越前大河ドラマ館の展示で一番の力作は衣装人物画紹介パネル。
衣装制作担当者に渡すための参考資料ではあるが、絵自体もきわめてカラフルで、可愛らしい。グッズにしたら人気が集まりそう。人物の年齢や着用シチュエーション、色の指定まで細かく付記されている。同じ人でも年齢を重ねたり環境が変わったりすればまた描く必要が生じる。それが100名以上…気が遠くなるほど膨大な作業で、ドラマ制作における陰の苦労が偲ばれる。
こちらでも出口付近にサイン色紙コーナー(撮影不可)が設けられている。ここでも「こまろLOVE」と可愛らしい文字が添えられた色紙に心なごんだが、その上にある藤原道兼の
「嫌いにならないで!」
という魂の叫びがとりわけ印象に残った。常に愛情に飢え、それゆえに蟻地獄にはまるような道兼は、今で言う愛着障害だったのだろうか。幼い頃時姫が体調を崩してあまり面倒を見られなかったのか、それともよほど性悪な乳母に当たってしまったのか。その頃の父は道綱のほうを可愛がったのか。それくらいの事情がなければ、あのような人物には育たないだろう。
会場の隣には越前和紙を用いたアートギャラリーとおみやげコーナーが設けられている。ソースカツ丼用のソースを購入した。
悲しきシャトルバス
帰りは武生駅行きシャトルバスに乗ったが、乗客は私ひとりだけ。いくら車社会地域とはいえ、淋しすぎる。運転手も張り合いのない風情。無言で発進して、駅に着くと無言でドアを開け、そのまま走り去った。今は無料だが、3月16日からは500円取るとのこと。人件費を考えればやむを得ないとは思えど、この調子で使ってくれる人がいるのかどうか心配になってくる。
公式でおなじみのまひろの画像がラッピングされているが、藤原公任と直秀のラッピングにすれば、遠路はるばる乗りに来る人が現れるかもしれない。出かけた日は第9回の放送前だったが、直秀は越前にも来てほしかった。散楽チームはナイスガイ揃い。私の年齢では「一世風靡セピア」を思い出す。
優しいおじさんと思っていた宣孝からの求婚や、父をひとり越前に残していくことに思案するまひろに「京に帰って物語書きたいんだろ?(宣孝は)お前のこと全部承知の上で申し込んできたんだ、使えるものは何でも使え。」と後押しして、自身は宋の商人と仲よくなり、やがて大きな商いを目指して海に乗り出していく、そんな人生を見てみたかった。本当に惜しい。
名古屋行き特急「しらさぎ」で武生を後にする。米原で座席シートを回転させる。あかね空の名古屋に着いた途端、肌を刺すような冷気が出迎えた。
これから行きたい、という人には越前市のほうをお勧めしたい。パンフレットつきだし、館内スタッフは親切だし、広い空間で余裕を持って見学できる。が、越前市はまもなく”微妙に遠い”場所になる。鉄道の場合、中京・関西方面からでも乗り換えが必須になってしまう。大して早くならない割に、価格はしっかり上がる。鉄道以外の交通機関はあまり充実していない。武生駅からならば徒歩圏内だが、新駅からはかなり遠く、徒歩で乗り切るのは無理がある。シャトルバスも有料になる。要するに観光客は足元を見られる。その点は留意していただきたい。
越前編へ
この記事を書いているさなか、吉高さんと岸谷さんが越前編の撮影で琵琶湖ロケに臨んだというニュースを目にした。越前編は、まひろと道長にとって一旦お互いを忘れてリフレッシュできるひと時にもなるだろう。まひろには新たな出会いがあり、道長は源倫子と仲よく暮らし、彰子や頼通など子供たちのよいお父さんとなるだろう。倫子は源明子の存在に神経をすり減らしそうだが…その頃まで小麻呂は元気でいるだろうか。