客観的でも大人じゃない
人生でとにかく「客観的だよね」、「落ち着いてるよね」と言われてきた。加えて、「大人だね」とも。
でもそれを言われるたび、よく分かんないな、とも感じていた。
それはよくよく考えると、「客観的である」ことが、良いことだと言えるのがなぜだか分からないからだった。
ものの見方として、主観的から客観的までのグラデーションがあって、それぞれの人でグラデーションのどこの位置でものを見るかが変わるのはわかる。
「客観的だね」を褒め言葉として言ってくれてるみたいだけど、「客観的だ」と指摘することは、あくまで「個人差がある」とか「人それぞれ違う」と言ってるだけで、そこに良い悪いの評価はついていない。
「客観的であることが良い」という価値判断はどこからくるのだろう?
それは、客観的であるということで、常識的で大人な行動が取れることを期待できると普通は思うからだ。
「客観的だ」というのは、より具体的に言い換えれば、「周りの状況やルールを把握できている」ということで、
そして、周りの状況やルールを把握していれば、「その状況やルールに則した行動ができて、状況やルールから大きくはみ出すことがない」と期待されるから。
いわゆる常識も社会的な状況やルールの一種だから、「客観的だと常識的な行動ができる」と期待されて、「常識的な行動ができることは良いことだから、客観的だと良い」となる。
さらに、客観的であることと、常識的であることは、本来別のものであるはずなのに、2つの概念がステレオタイプ化されて、ほぼ同じものと判断される。
だから、客観的であることが、常識的であることをそのまま意味すると誤解される。
客観的なのに、常識的で大人な行動が取れないことは、多くの人は想像できないらしい。だから「あんなに客観的なのに、まさかあんなことをするなんて」みたいな批判が妥当性を帯びる。
最後までありがとうございました。ゆるく生きていきましょう。