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統合失調症の僕が週3日介護士生活を送るまで

はじめに
僕は現在週3日介護の仕事と精神障害年金で暮らしている。
僕は19歳で統合失調症を発症し隔離病棟に緊急入院した。
しかし障害者年金をもらい出したのは約1年前である。
自分語りになるが今回は今のライフスタイルになるまでの流れを紹介しておこうと思う。

19歳入院

この頃専門学校に通っていたのだが統合失調症の幻聴と妄想で人間関係が破綻する。
この時はまだ自分が病気と思っていない為当時の専門学校を辞め同職種の別の専門学校に転入する。
学校を移っても幻聴と妄想は止まらず人間関係のトラブルを起こす。
次第に自分が世界中に24時間ライブ配信され炎上している。人格否定の幻聴が24時間続きライブ配信の犯人は当時同居していた母親という妄想に取り憑かれ家で暴れる。
その日のうちに知らない大人がやってきて病院に連れて行かれ無事緊急入院となる。

20歳就職

奇跡的に薬があっていた為落ち着いてくる。
病識が薄かったのが徐々にあれは幻聴と妄想だったのかと認識していく。人間関係を自分が原因で壊した事は考たら終わると思い考えないようにしていた。
必ず病院に受診する事と薬を勝手にやめない事を医師と固く約束し3ヶ月ほどで退院。
専門学校を辞め約半年ほどニート生活をする。
このニート生活で自己否定しない、ネガティブな事を考え始めたら思考停止するというルールを作る。
看護師をしていた母のコネで介護施設に就職。

2つ目の施設と初めての休職

最初に就職した介護施設がブラックだった。
コネなのにブラックてなんでやねん!
ボーナスが無くなり別の介護施設へ!
何とここの施設もブラックだった!
オーマイガー!
しかも人間関係もすこぶる悪い。
陰口あり噂話あり喧嘩あり統合失調症の僕としては最悪の環境だった。
その頃僕は薬を飲まずに生活する事、病気を治す事を目指していた。徐々に薬を減らしながら正社員で休憩もろくに取れずに働いていた。
僕は自分の不調を感じ取る事がとても苦手だ。
自己主張もしないタイプである。
今は少し自分の不調を感じ取れるようになったがその頃は全て押し殺していた。
診察でも問題ないです。としか話さなかった。
そうして薬を飲まずにやっていけるか診察だけで様子見をしていた。
すると転職して11ヶ月後に統合失調症が再発しうつ状態へ。
悪口を言われている嫌われていると感じうつ状態になり休職した。
休職して休んでいる間少し落ち着きふと思った。
これは幻聴と妄想かもしれない。
職場に手続きの電話をかけそれを録音する。電話の切り際に悪口を言われているのが聞こえた。
録音を聞く。すると悪口の部分は全くの無音だった。幻聴だ。
僕は先生にありのままをつげ薬を再開した。

3つ目の施設と引越し

この時親が再婚して県外に引っ越していた。
書き忘れたが僕は二十歳の後半マッチングアプリで知り合った妻とデキ婚した。
妻は子供が産まれると産後うつになり我が家は産後クライシスになった。そのストレスと職場のストレスが重なったからなのか僕は統合失調症が再発しうつ状態になるというカオス。
こりゃやばいと親元へお引越し。
僕は3ヶ月ほど休職して3つ目の施設へ転職。
しかしまたまた僕の悪い癖で自分の不調を感じ取れず押し殺し無理をする。
そう全然回復してなかったのだ。
新たな職場で3ヶ月働き無事朝起き上がれなくなり休職する。
うつ状態で引越し先の新たな先生に診断を出してもらい休職。
この頃は一番辛かった統合失調症真っ只中の記憶がフラッシュバックしたり人と関わりたくないと言って引きこもっていたり1人にしてくれ!と怒っていたりした。
そんなこんなで半年間休職する。

職場復帰と休職

休職が明け徐々に仕事に戻る。
薬もしっかり飲み働く。2年ほど正社員で働いた。
しかし人手不足で休日出勤と残業が当たり前になってくる。僕はどんどん過労気味になっていった。そして職場の元ヤンバツ2女性に仕事で必要な提出物が出ていないとお伝したところ、「忙しいんやから仕方ないやろ!」とブチギレられた。
そしてもう一つ厄介な事が起こった。
右膝の前十字靭帯のムコイド変性という病院で膝に痛みが出ていたのだ。ひどい時は寝ている時に痛みで目が覚めるほどだった。痛みはだんだんと仕事を憂鬱にしていった。
職場もこれと言った対策はしてくれなかった。
過労とこれらをきっかけにストレス過多になり体調を崩していった。その女性とはその後もずっとギスギスしており主任と副主任に相談したが特段何もしてくれなかった。
統合失調症の陰性症状、抑うつで朝起きれず仕事を休みがちになる。また夜になるとストレスで熱が出るようになった。
時短勤務に変えてもらうも夜勤にも入れてもらえず手取り12万円弱。生活がままならない。時短といっても月の休みが2日増えただけ。何度も起き上がれず暗くなるまで動けない日々が続いた。
仕事は無断欠勤。どうしようもなかった。
僕はまた起き上がれなくなった。
人生3度目の休職をした。

3度目の職場復帰

3ヶ月ほど休職して3度目の職場復帰。またまた僕の悪い癖で回復しきっていないのに無理をして復帰した。復帰して1週間。子供がコロナになり1週間自宅待機になった。僕はコロナにかからなかったが仕事には行けない。コロナの休職期間が終わり数日、僕は熱で仕事を休んだ。
コロナの検査に行き、陰性が判明して施設に呼び出された。
簡単にいうと休まれると迷惑だと現場が言ってるから辞めてくれという事だった。
僕はショックを受けた。
ならなぜ復職させたのだと怒りも感じた。
しかしこうなっては仕方ない、突然の退職勧奨に戸惑いながらも話を持ち帰り後日電話をかける。
退職するので会社都合退職にして欲しいとお願いした。
しかし答えは「ノー」
なんじゃそら。
「辞めて欲しいとは言ったけどやめろとは言ってないから会社都合退職にはしない。」との事。
なんじゃそらそら。
結局僕は自己都合退職した。

退職とその後

ここで母が精神障害年金なるものがあると教えてくれた。
母いわく今まであんたが怠けたらあかんと思って黙ってたとの事。
僕は思った。なんじゃそら。
僕は精神障害年金に申し込みをした。
厳密には母が申し込みを代理でしてくれた。
障害者年金の申し込みから入金まで半年ほどかかる。その間に僕は働いた。
この間に第二子が生まれる。
妻たっての希望で二人目を作っていた。
そんな事情もあり例の如く治りかけで無理をした。
いい感じの施設を探す。
入職二日目で質問をすると何を覚えてきたんだとブチギレられ退職。
次の新たな施設で抑うつオーラを出しながら働く僕。声が小さいとか何とかおばさまにいびられる。
挨拶をしているのに挨拶をしないと施設長にクレームを入れられ注意を受ける。
無事3ヶ月で再び抑うつ状態で退職。

グッバイ介護

1ヶ月ほど休み介護業界から離れることにした。
休んでる間に障害年金をゲットした。
パッパラー。
どんな職に就くか考えた。
僕には子供もいる。
働かずに暮らすのは不可能だ。
とにかくスローライフを送りたい、そしてとにかく人と関わりたくなかった為タクシー運転手になった。
ただタクシーは長時間労働の激務だった。
体力自慢のショートスリーパーには稼げるいい仕事だがこちとらすぐに脳が疲れるロングスリーパー。キツすぎて1ヶ月で退職。
フルタイムで働くのは辞めることにした。
元々全然お金を使わないタイプの僕は障害年金とアルバイトで充分暮らしていける事に気がついた。そりゃ裕福な暮らしではないが裕福な暮らしにさほど興味も無い。年収が増えるよりも凪な休日が増えた方が幸福度が上がるのだ。
そう気づいてからセカンドストリートでバイトして1ヶ月。そして気づく介護の方が時給高いんじゃね?

カムバック介護

そんなこんなで現在の週3日介護生活につながる。
体調の悪い日ももちろんあるが何とか日々を乗り越えている。職場のロッカーにはお守りの精神安定剤がある。今の職場は今までで一番仕事がしやすい環境だと思っている。そしてやっぱり僕は介護を通じて人と関わるのが好きなのだ。人と関わりたくない時期を経てなお介護に戻ってきた今だからこそ実感する。僕は人が好きなのだ。

〜現在

そんなこんなで今は一生懸命、凪な生活をしている。僕にとって凪とは何の刺激もない退屈な時間ではなく、努力して手に入れる幸せな時間なのだ。
19歳のあの頃より趣味やストレス発散の方法も増え自分の不調にも目を向けれるようになった。
これからも努力して凪の生活を続けていきたい。
全ては凪の生活の為に。

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