【読書】北田暁大「社会制作の方法: 社会は社会を創る、でもいかにして?」
「社会制作の方法: 社会は社会を創る、でもいかにして?」という本を読んだ。難解すぎてほとんど理解できなかった。その理由の1つとして、本書が過去の論文を再構成したものである点が挙げられる。論文というのはその道に通じた研究者に向けて書かれたものである。そのため、ある程度の知識を前提とした上で、何かを論じるというスタイルになる。そうした論文を素人が読むと、前提知識が分からず難しいということに陥る。専門書を生半可な気持ち・知識で読んでは良くないということがよく分かった。
本題とは全く異なるが、唯一頭に残っていることがある。それは、「である」と「べき」は異なるということである。たとえば、2021年はオリンピックが開催される予定であるが(である)、だからといってオリンピックが開催されるべきということにはならない。
これは一見当たり前のことだが、知らないうちに混同していることもあるのではと思う。スケートについて優れた才能の持つ人同士が仮に結婚し子どもを産んだとして、とてつもなく優れた才能を持つ子が産まれたとする。このことは、その子はスケートに長けているということを意味するが、スケートをするべきであるということを意味しない。
その子を見てスケートをしてほしいなという気持ちが芽生えるのは自然なことだと思うが、その期待が大きな空気に変容し、しまいにはスケートをするべきであるというべき論になってはいけないと思う。