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「日本の歌:歌詞のテンプレ化,若者の語彙不足…、一体誰のせい?」
こんにちは、お疲れさまです。仕事終わりで“速攻帰省”の方々、全国何処もスゴ〜く寒くなってますから、身体を冷やさないよう御注意を。温かい車内と、SAに着いて車のドアから出た瞬間の《あのヒュッと首に入る冷たさ》との温度差をナメてはいけませんよ。
《そう言われてみれば…》
さて、このタイトルは、つい最近何かの記事で載っていて、読んで思わず『なるほどなぁ〜』と思ったことです。
「桜が舞い散る」「君に出会えた奇跡」…、(歌詞を)作った当人は何とも感じていないのかもしれませんが、確かに今どきの歌でこの手の“使い古された安直なフレーズ”はよく溢れている様な気がします。メロディーが先行して、歌詞に対する思いが相対的に軽くなってる気は、確かにしないではありません。
記事ではそれを《作る若者のボキャ貧》として嘆いていましたが、ただ難しいのは「そのフレーズ自体が悪い」と云うことでは無く《自分の想いを語るのに、そんなに使われ過ぎた》、お笑い用語で言うなら『コスり倒された様な表現』で良いのか?ってことなのだと思います(あと、これは話の本筋とは離れますが、最近は《作詞家》が減りましたよね?言葉の“本職”が減ることは悲しいですし、まともな歌詞が書けないのなら本職に頼んだ方が…とも思います)。
《日本の若者の語彙不足…?》
ですから即、『今の若者は、まともな本を読んでないから言葉が圧倒的に足りないんだよ!』と、お爺ちゃんの様なことを言いたいわけでは有りませんw。
でも、自分の心の中に生じた感情や、ふと空を眺めていて浮かんだ感覚等を言語化して歌を作ろうと思うなら、自分の頭の中の辞書から《言葉を紡ぎ出す》作業を行わなくては成らない事を忘れてはいけないと思います。
但し、活字嫌いで過ごしてきた若い方々には確かに「適切な言葉」を何処から仕入れるか、難しいんだろうと思います。マンガやラノベ等がコレだけ世の中に溢れ、潤沢過ぎる程豊富なわが国に生きていたら『何処から仕入れれば…!?』と成る気持ちも分からないではありません。
《言葉は、探すのではなく…》
長く読書を続けてきた自分から言わせていただければ、「言葉」は探すものではなく、本を読むと云う作業の中で、作家の言葉から触発されて辞書を開いてみたりして少しずつ自分の頭の中で作り上げたり、紡ぎ出されてくるものだと思います。例えば、言葉一つでも作家の使い方次第では、多種多様な解釈が出来るものだってあります。
そうした様々な言葉遣いから、自分なりの辞書が頭の中に出来上がっていくと思っています(まして歌詞は、そうした処がしっかりしてなければ生まれてこないでしょう)。単純にマンガやラノベが悪いのでは無く、読んでいる媒体からもっと《引き出す作業》をしなくてはいけないのだと。
一見して難しい本であっても、辞書を引く事を面倒臭がったりせず、一文ずつその含む意味合いをじっくり読み込む作業を続ければ、自ずと《自分の言葉》は増えてくると自分は考えます。それが蓄積される事で、世間一般の人々に訴えたいことや聞いてみたい事がある時や、自分の話を伝えたい時に、どう表現すれば自分の本意を相手に伝えられるのかを学び続けた事が生きてくるように。それが出来る頃にはラノベ等からも、自然と卒業できているでしょうw。
《言葉(=日本語)を大切に…》
ですから、日々の暮らしの中に《本を読む》事はとても大切なことだと思います。「そんな七面倒くさい本なんて読みたかねぇよ」では、自分の言葉は生まれません。自分の人生の中で、とっても表現が難しい、だけど自分の心の中ではハッキリとしたイメージが在る感情や感覚なのに、《自分の言葉》が無いせいで、相手に伝えられないなんてことが起きたら、その時に成ってから本や辞書を引っ張り出しても適切な表現は見付からないでしょうし、人生の一番大事な局面でもしもそんな目に有ったら最悪ですし、哀しいでしょうね。
自分の国の言葉で、自分の心の奥底にある大切な気持ちを表現出来ないのは、(その人が)生を受けて今世を過ごす上においても情けない怠慢の結果であり、悲劇と云えるでしょう。
『人はパンのみにて生きるにあらず』と、心から思える経験を重ねていけば、自ずと読む本も変わってくるものです、要は歳を取ればね…w。
楽しい娯楽ばかりに耽るのではなく、年末年始、そんな気持ちにさせてくれる本とじっくり向き合って過ごしてみる事を、今年は帰省しない、横着な年末年始を過ごす諸兄にも是非お薦め致します。