私が目指す場所
今から20年ほど前、私たち一家は夫の仕事の都合で静岡県に住んでいた。
美しい富士山を毎日身近に感じられる町で、蛇口をひねると冷たい水が出てきたことがとても印象に残っている。
当時幼稚園に通う息子は、そこで知り合ったお友達に硬筆の先生を紹介してもらい、週に1回、茶畑広がる地区の小さな教室に通っていた。
先生は年配の女性で物腰の柔らかな印象。ご自宅の一室を使って、生徒が数名通っていたような記憶。いつも教室が終わる時間になると、息子は先生の自宅の電話を借りて、私が迎えに行くというスタイル。
引っ越しのタイミングが重なり、長く通うことはなかったけれど、なぜか急にその先生のことを思い出した。知り合いのいない土地で私たち親子を優しく受け入れてくれた、とても居心地の良い場所だった。
先生がどんな字を書いていたのか、どういう流派だったのか、資格があったのかなかったのか、なにも覚えていないし、恐らくそんなこと一切気にしていなかった。息子の字が上手になったのかどうかも怪しいものだけれど、それでも先生とあのお部屋の温かい雰囲気が深く深く心のアルバムに残っている。
私が目指す場所はそこだ、と昨夜急に思い立って今この記事を書いている。
現在、私は自宅を使っての小さなヨーガ教室を始めている。
といっても、変則的な日程での会社勤め、休日は犬活動もあり、なかなか思うように開催できてはいない。とりあえずホームページを掲げているだけという状態が続いている。
それでも、ふとなつかしい記憶を辿ることで、思いがけず自分の目指す場所がはっきりとイメージ出来た。20年前に出会ったあの硬筆の先生のように「来てくれた人をまるごと受け入れる」そういう温かな場所を作りたいのだと改めて気が付いた。
私の歩むヨーガの世界は足を踏み入れれば踏み入れるほど、学ぶことの多さに、そして目指すべき山の高さに圧倒される。少し気を抜けば私の中のエゴが「私なんて」「絶対無理だ」「全然できてないのに」と頭の中でおしゃべりを始め、そっちに引っ張られて本来の自分をすぐに見失ってしまう。
さらにはSNSからのヨガ情報、アーサナ、哲学、瞑想、呼吸法、アーユルヴェーダと、各方面のプロっぽい人たちの、もっと学ぼう、もっと上を目指そう、というビジネス的な呼びかけにも実は少々疲れを感じている。
まるでヨガとはこういうものだと決めつけたような情報ばかり。
どんなヨガであれ、目指すべき頂はひとつ、それは確かな真実だと思っている。けれどもそこへの道はいろいろあっていいはずだ。どんな道でもいい。
広々として舗装された歩きやすい道もあるだろう。
本来の道を少し外れてマニアックな脇道もおもしろいかも。
私はと言えば、信じる先生の辿った道の端っこを歩かせてもらいながら、犬たちと一緒におもしろいものを探してのんびり進む、そんな感じ。
そんなこんなで、私のヨーガの道、こつこつと歩んで参ります。