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それゆけ李白マン~中国街歩き詩選~ 第51回 耳をすませば天命が

(73)得勝街(ドーションジエ)を直進していくと、北環路(ベイホワンルー)に出る。此処(ここ)から、玄妙観なる道観へと移動したい。だが天は我に味方せず、而(しこう)して空車を拾うこと能(あた)わず、炎天下をとぼとぼ歩く。これは想定外だった。タクシーに先客がいようとも、相席・同乗かまわずとなれば気前よく乗せてくれることも多いのだが(つまり状況と交渉しだいなのだ)、なぜか今日はつかまらぬ。だから、一歩でも前に進むより仕方ない。それにしても、辺りはなんという世界だろう。数百米(メートル)歩いても、左右両側、フェンス、フェンス、フェンス。一年後の風景は、夢の国かそれとも夢の島か。気の利いた案内板もないし、何が出来上がるのか皆目分からぬが、とにかくすごい建設熱である。陽に照らされた路上の空気が、陽炎(かげろう)のようにゆらめいている。いや真夏でなくて、まだよかった。そうして十分くらい経過しただろうか。一台の空車が神の使いのごとく現れて停車し、ぼくを荊州城内へと運んでくれた。

(74)埃(ほこり)っぽい道を走らせること数分、ほどなく玄妙観の前に到着した。荊州城内外には、玄妙観・開元観・太暉観と合わせて三つの有名な道観が残されている。それぞれに特色があって、本来ならば全部めぐりたいのだが、太暉観は城から微妙に離れており却下、開元観は昨日入場できず、それで玄妙観へとやってきた。ここは唐代の貞観9(635年)の創建。清の康煕帝の諱(いみな)である玄燁を避け、玄を元へと改めたという話も聞くが、電子地図でも現地でも「玄妙観」と表記されている。門前はごくありふれた、飾らない風情の街路で、ぼくは奇(く)しくも蘇州玄妙観の裏っ手の風景を思い出した(並木道の様子がちょっぴり似ていたのだ)。係員に20元を払って中に入る。向こうが料金はウースー、つまり20元だというので、こっちも、はいはいウースーなんて付き合いで訛(なま)ってみる。一晩で慣れたりはしないが、湖北人と一緒に訛ればどうということはない。郷に入らば訛れ。漱石の坊っちゃんにも訓示を垂れたいくらいである。境内は道観のお手本どおりにシンメトリーな中庭構造の空間がひろがり、かなり奥行きがある。三層の紅々(あかあか)とした楼閣・玉皇閣を通りぬけて先へすすむと、小城のような石壁と急な階段をもつ、玄妙観のシンボルたる紫皇殿がいよいよあらわれる。よもや雨乞いの櫓(やぐら)ではあるまいなと疑いたくなる、ひたすら垂直志向の建造物が、人の視線を天へ天へと勝手にいざなう。これは上天との交信台であろうか。ぼくは階段へ足を踏み出し、中華の神々に到着を報告すべく、壇上に向かって一歩一歩進み出た。階段は25段もあった。門をくぐり、殿宇に到る。こちらは重檐二層の建物。意外にも内部はすっからかんで、壁に石刻が嵌(は)め込まれ、床には金色で細工された四つ脚の物体(祭器の一種か)が置かれているだけである。さて、他に観光客がいないのは贅沢でもあり、またちょっと寂しい気もするが、実のところマイペースな遊子にはあまり関係がない。独り占めはいいことである。壇上は静かなものだった。カラリとした青空と境内の緑が視界を覆い、ときどき小鳥がさえずる。ぼくは20元ぶんの「お願い」として、道中の無事と世界平和をよく祈り、それからパワースポットの聖気を大きく吸い込んでから、あとは転げ落ちないように用心して壇を下りた。何か大事なお告げがあるかしらと耳をすませたり、注意深く四方をうかがったりしてみたが、天命はついに聞かれなかった(チェッ)。しかし、最後にいい感じの時間を過ごしたなあという感慨が込み上げ、ぼくはまた少しく旅情に浸った。

中央奥の比較的新しそうな民居も取り壊しか…(もったいない)
得勝街で談笑する人たち。車両やパラソルは商売用なのか何なのか…
北環路の風景。上は東(とぼとぼ歩いたのはこっち)、下は西方向。
ようやく玄妙観へたどりつく。いよいよ荊州最後の訪問地。
案内図と碑林エリア(右)。碑もまた最強メディアの一つだと知らされる中国旅。
玄妙観・紫皇殿。基壇の高さもなかなかのもの。
(左上)祭器か?(右上)壇上の門、(左下)紫皇殿、(右下)殿内にも石刻。

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