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当然を疑ってみる勇気
こんにちは!みなさま、お元気にされていますか。
今日は「当然を疑ってみる勇気」について書きたいと思います。
そもそも、なんでこのテーマ?ってことなのですが、
年末年始で日本に一時帰国中で、いつもとは少しパターンの違う生活を送っているからなのか、わが子「宇宙人のボク」の素行にいつもよりイラっとしたりすることが多いので(笑)、このイラっとする感情について掘り下げていくと、結構面白いところに行き着きましたのでシェアしたいと思います。
ひとつの例をあげると、息子は日本に帰ってくると、近所にたった一人いる仲良しのお友達と、相手に予定がない限り、延々と遊び続けます。そして、ご飯を我が家で食べていってほしと息子がリクエストをするので、朝からずーっとお友達が入り浸り状態な日もあったりします。
友達とのご飯の時間からの学び
ある日、夕食を一緒にしたいと言うので、適当にあるものでご飯を作りました。
息子のお友達はちゃんと「いただきます」「ご馳走様」、配膳も下膳もちゃんと手伝います。一方で、うちの宇宙人くんは何もせず、むしろ、多動気味で、食事中に席を立つこともしばしば。
そんな息子に、お友達が「ご馳走様、言わないの?」と聞いてくれて、息子も、「あ、ご馳走様でした~」と言いました。
料理をしている母としては、心の中で「子育てを間違えたかな、、、うちの子は感謝もできない子だ、、、」と自分責めが始まります。
さらに、お友達がちゃんと言えるのに、うちの子は言えない・・・と比較も始まります。
いやいや、ちょっと待てよ。
イライラしたり、息子を責めたり、自分を責めたりする思考は自動でいくらでもできてますが、あれ?この思考で本当に良かったんだっけ?
私たちは、親への感謝、尊敬、食事への感謝、米粒ひとつも残したら目がつぶれる等々、幼少期に徹底的に躾けられます。
大人になった今なら、「お米一粒への感謝」をもって食べることは神様とつながるようなことだと分かりますが、子供のころは、言われた通りにしないと怒られるから言っているだけみたいな側面もあり、本当の本当の意味は理解していませんでした。
家族の一員として、下膳をすることも当然と教えられてきました。
躾という名の罠
でも、本当にそうでしょうか。
私たちが育てられてきた中で、当然と思っていることって本当に真実なのでしょうか。
話はちょっと行き過ぎかもしれませんが、もしあなたがどこかの宮殿に住んでいたり、はたまたお手伝いさんがいるような生活をしていたら、下膳をするでしょうか。きっと、しないですよね。だって、お手伝いさんにはお手伝いさんの役割があるし、あなたにはあなたの役割があるからです。
もちろん、人を助けたり、人の役に立つことへの喜びを子供に伝えていきたいと私も含め、誰もが思っていると思います。
でも、「いま」ご馳走様が言えないと、この先もずっと言えないのでしょうか。「いま」下膳ができないと一生できないし、やらないのでしょうか。
「いま」きちんとお手伝いができて、躾されていないと、その子はダメ人間なのでしょうか。
多分、全部違いますよね?
私たちは「いますぐ」結果を出すことが最も重要であり、当然だという思い込みにとらわれています。
もう数え切れないほどのたくさんの思い込みの中で生きています。
「当然だ」と思っていることを少し視点を変えてみてみると、自分の囚われている思考に気づくことができるかもしれません。
長い目でみたら・・・
ちなみに、親バカな私は、我が家の宇宙人は将来、大物に化けると信じています(笑)
息子の素行や言動を、世間一般の常識にあてはめたら、私は苦しくて仕方ないはずです(以前はそうだったので)。
でも、彼には強いリーダーシップがあることを私は見抜いています。そのため、人をうまく使う力も備わっています。
だから、息子が本当に食事に感謝する意味を理解する日が来たとき、親からうるさく言われたから、何も考えずに自動的に、ただの習慣で口からでてくる「いただきます」や「ごちそうさま」より、何倍もの感謝を神や農家さんにできる日が来ると信じています。
ママが考える大切なことを、さらっと会話の中で伝えるだけでOK!
すぐにわかってもらえなくても、すぐに行動が変わらなくても、長い目で見守ればよいのです。
私たち大人だって、行動を変えるのってすごく大変なのですから。
毎日の生活の中で、「できて当然」、「やって当然」、「やってもらって当然」など、わたしたちが強く思い込んでいることに気づいたら、すこーし視点を変えてみてください。
社会からのプレッシャーや期待に応えるのではなく、あなたはお子さんをどう見たいですか?あなたはお子さんの何が見えていますか。
私たちから変化を起こす「当然を疑う」習慣、やってみてほしいなと思います。