宗教と科学と恨み節
この記事は、dp9の2022年アドベントカレンダーの14日目、Bizjapanの2022年アドベントカレンダー の16日目の記事です。
12/16追記
もともとDP9のアドベントカレンダーとして出したものでしたが、Bizjapanの方にも投稿いたしました!
大学5年目にしてようやく3年生に進級を果たした今年、卒論の執筆が始まった。とはいえ本格化するのは来年からで、今は関係しそうな本をボチボチ読み始めたという程度。卒論のテーマはルドルフシュタイナーの教育芸術論について。こんなマイナーな思想家を取り上げようとも思ったのは、私が小中の9年間を彼の思想に基づいて教育実践を行う「シュタイナー学校」に通っていたからだ。つまり、自分自身のアイデンティティを考えるためにこの題材を選んだというわけである。
このnoteでは、わずかではあるがシュタイナーの思想に触れた私の感想を初心として残しておこうと思う。
話は変わるが最近(といってもかなり前からな気もするが)、現代科学は一つの宗教であるという主張がなされることがある。このことは、科学主義あるいは科学信仰、科学万能主義といった言葉に代表されている。
ルネサンスによってキリスト教が打ち捨てられ、人文主義が大航海時代によって全世界の標準となった今、科学は否応なく人々の心の支えになっている。近代科学が観察を通じて世界について語る言葉の価値と中世神学が解釈を通じて世界について語る言葉の価値は、学問の渦中にいない多くの人にとって大差がない。では、科学と宗教は何によって分けられるのだろうか。このことを考える上で、シュタイナーの思想が物差しになる。
ここでシュタイナー思想の態度について確認しておこう。Wikipediaによると、彼は神秘思想家、哲学者、教育者であるが、農学の実践も残すほか、様々な分野に関心を持っていた。だが、シュタイナーの特異性を考えるうえではこういった、何を研究していたのかということは当てにならず、その方法に注目する必要がある。シュタイナーは何かを研究するうえで科学的な観察ではなく、霊的エネルギーの観察を重視していた。つまり、シュタイナーの特異性は霊学の観点から事象を観察するべきと唱えた点にあるのだ!
ちょっと待て。
胡散臭さがカンストしている。
これがシュタイナーが一部では熱狂的な指示を得ている一方、一部以外の人からは見向きもされていない要因だろう。気持ちはわかるのでとりあえずそういうものだと思って読み進めてみてほしい。シュタイナーは自身の霊学を宗教とは明確に区別している。なぜならそれは実際に起こっていることであり、人は精神的に鍛錬して見霊能力を身につけることでエーテル体の在り方を把捉でき、これに対して宗教はあくまでも観測不能な個人の主観に基づいているからである。
(ちなみに、見霊能力というワードは驚くなかれシュタイナーの解説書に載っていたものである。間違っても「フッ、オレのエーテルの波動がお前には捉えられないのか…?お前の見霊能力(ゴーストサイト)もたかが知れているな」などと使わないように)
改めて、シュタイナーのいう霊的なものとは何なのか考えていく。彼によると霊、あるいはエーテル体とは抽象的なイメージでも概念的な言葉遊びも、ましてや宗教的な象徴でもなく実在し、観測することができるものである。例えば、計器が発達することによって電子を観測することができるようになる以前から電子は存在していたように、霊は普通の人間ではほとんど感じることができないが、研鑽を積むことで観測することができるようになるらしい。そのため、シュタイナーの観測したことについて「それってあなたの感想ですよね」ということはできない。
シュタイナーは霊学を現代科学とも区別している。なぜなら、現代科学は霊的なものを扱えないからである。
シュタイナーが多くの現代人にとって胡散臭いものであると感じられるのは紛れもない事実ではあるが、現代科学がそれに比べて信頼に足るものであるかということについては私は断言できない。なにせ現代科学が観測している量子や原子やらだって、私にしてみれば十分に「わけのわからない理論」だからである。これは何も自然科学に限った話ではなく、知識の専門化が進んだ状況では、各分野の最先端の研究結果について、自分の専門に近い2割程度の範囲しか理解できないのではないのだろうか。
では、なぜ私たちはシュタイナーを胡散臭いと感じるのだろうか。あるいはシュタイナーに限らず宗教を不確実で不明瞭なものとみなすのだろうか。私がシュタイナーについて調べる中で至った結論は、科学の研究結果は人によらず、したがって自浄作用が働くということである。
シュタイナーの研究者たちは、100年も前にたった一人の男が言ったことをいまだに真実ととらえており、その枠の中でしか物事を観察しようとしていない。それがたまらなく気持ち悪いのだ。しかし科学は違う。もちろん○○学の権威というような存在が生まれることもあるかもしれないが、いつかその理論も乗り越えられ、「過去の仮説の一つ」となり歴史として扱われるようになる。科学の中では誰かが間違えたとしても、別の誰かがそれを訂正することができ、その訂正ですらも別の誰かが訂正することができるのだ。
この意味では、宗教の方がシュタイナーの霊学よりも健全と言えるかもしれない。宗教における権威はたいていの場合何百年も何千年も前に書かれた聖典であり、もはや個人の考え方で左右されるようなものではないからである。
ここまで考えて、私の卒業論文の裏テーマが決まった。シュタイナーの理論を乗り越え、訂正することで、彼を霊学唯一の権威から、人文科学の一学者に引きずり下ろすことである。私は、横浜シュタイナー学園という学校で育ったことについては恵まれていたと思っているが、シュタイナー教育そのものについては非常に懐疑的である。なぜなら、私のような人間を育ててしまう教育理論だからである。こんなろくでもない人間を生産し続ける学び舎というのがどうしても許せない。これから1年かけて、自分のアイデンティティを壊したシュタイナーという男に対して、恨み節を綴ることになると思うと、なかなかどうしてワクワクが止まらない。
この記事が投稿されるのは12月14日なわけですが、私がこの日を選んだのにはちょっとした理由があります。実は誕生日からちょうど1か月目なのです。5年もいっしょにいる人たちから完全に忘れられているというのは正直悲しいものがあって、かといって自分から言い出す度胸もなく、こんな惨めな形でしか自己表現できないのですが、もし来年の11月14日も私がDP9にいたら、slackでスタンプ一つでもつけてくれると嬉しいです。
12/16追記②
Bizjapanのみなさんも、もし覚えてたらお祝いしてくれると嬉しいです。
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