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純文学を読んでいた理由を考えた

読み手のことを、考えるーー

そんな気持ちになったので
自分を起点に考えてみる。

純文学を読み漁っていたのは20代。
なんで、あんなに読んでいたんだろう?

純文学を読み始めたとき、
わたしは落ち込んでいたっけ。

こんな世界、とか、こんな自分、とか、
そういうものに折り合いがつけられなくて。

だから純文学を読んでいたとき、
わたしは心底、救われていたんだと思う。

世界とか、自分とか、
本当にどうしようもないものに、
深く思い巡らせている人がいる。


孤独な人がこんなにいっぱいいるーー

世界に押しつぶされそうな人も。
自分の思考だけが深く深く潜っていく人も。
苦しさを正面切って受け止めようとする人も。

だからわたしが純文学を読んでいた時は、
どうしようもなく孤独で、悩んでいた時。

読むことで、救われていたし、
ついでに書くことで、救われていた。

さて40歳。
純文学はもう、あまり読まない。

たぶん、必要がないからだ。
幸いなことに、そんな悩んでない。

そっかー。
そうだよなぁー。

当然そりゃもう書けない。

フツーのことに気づくのに、
またずいぶん時間がかかったなぁ〜。

読み手を考えるーー
って言うけれど、純文学に関しては、
自分のために書いていいんだ、と思う。

自分を救い、誰かをも救う、
やっぱりそういう存在だと思うから。

(もちろんマジックリアリズムとか、
そういう作品もあるけど、
根底に流れるものは同じだと思う)

でも書くためにその人は、
どうしようもないものを、
抱えていなくてはならない。

またいつかわたしもそこに行くかもしれない。
それはたぶん、「不幸中の幸い」みたいな事態だと思う。

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