浄化の太陽風
今日は用事があって仙台駅東口まで。
そしてそのままとんぼ返りで勾当台公園から歩いて十分ほどの某所に行き、その後遅い昼食をガネッシュで摂った。
街を歩いていると、紅葉が進んだ街路樹の下のベンチで親子連れが時間を過ごしていた。ベンチに座ろうと思い探していると、太り過ぎのため苦しそうに歩く壮年がコンビニのアイスコーヒーを飲むために次のベンチ、その先も同じように追い越していった人が座り、結局100mほど歩いたところにあるベンチに座ることができた。
太陽は葉擦れの向こうからやってくる時は微かな光に見えたが、街路樹を抜けると一気に強い日差しになって襲ってきた。
空気は冷たい。が、太陽は強い。
太陽風という言葉を思い浮かべた。
放射能の嵐のような太陽風が地上を襲うと、秋の強い日差しのように、人を狂わせてしまうような働きがあるらしい。機械だけでなく、脳の中の電流回路も影響を受ける。簡単なロジックだ。
そんなことを思いながら、ニットの向こうから暖かく照らしてくれる太陽に少し感謝しながら、帰り道を急いだ。
ところで、人はなぜこうも急ぐのだろうか?
どこかの島に急がないことがデフォルト・モードな島がありそうな気がする。
もっと、もっとゆっくり歩きたい。
人生も、道端を歩く時も。
仕事で予定があるときは仕方がない。でも、早く出ることで歩を遅めることに寄与はできる。
ベースラインを刻むように歩く人だと言われたことがある。
そんな歩き方でいいなら、急足の人が通例の中でも、流れに逆行するようにゆっくりと歩きたい。
そんなことを考えながら、事実上ゆっくりと歩くことをしている私がいた。
ところで、太陽風がやってくる予報のある日は、浄化されていると見るのはどうだろうか?
今日の仙台のように緩やかに時間が流れる日もまた、見えない力が太陽風なのか地磁気嵐なのか、やってきているかもしれない。
そんな日は日中は緊張しても、夜はリラックスできる。
今日はある程度の収穫もあった。
カレーも美味しかった。
充実した1日というのはこういうことを言うのだろう。
しばし忘れていたその感覚と共に、地下鉄最寄駅からゆっくりとした急足で自宅へ帰った。