亀井善之

亀井善之

最近の記事

過去との和解

オオイヌノフグリが群生していた。 懐かしい場所、大崎八幡宮や三居沢不動尊程近くにあるバス停の近く。電話相談の仕事をしていた頃のことだ。 桜が咲いているかと思ったらまだしっかりと咲いていなかった。 一人で花見と予祝をした。 澱んだ思い出も、軽く明るい思い出も、その中に喜びと苦しみが混在していた。 全部ゆるそう。そう決めた春の一日だった。

    • 純粋ではないエネルギーとして身体の各階層から駆逐することができる。そう考えると、純粋な自分に還る作業は様々な可能性を持っている。

      • 過去は時間の流れに押し流されている。 ごく、理性的に向き合うならば、やはりもう戻っては来ないし、過去の出来事自体は今の自分に何の影響力も持っていない。体の反射には何かが残ってしまっているかも知れないが、特に他人の悪意からくるものならば、

        • 当たり前のことを当たり前としてみるのかどうか

          ごく簡単な事ができない人がいるとする。 例えば、少しだけ人に気を遣うとか、丁寧に暮らしてみる。とか、 その結果が積もり積もれば甚大な影響をもたらすような類だが、 それができない人がいた場合、人はどう思うだろうか? その人の体質にもよるだろうけれど、気にならない人もいれば、気になる人もいる。 逆に、その性質とは真逆のことがそこに起こっていた場合、 例えば、丁寧さよりもスムーズに動いてほしい人がいた場合、または人に気を遣うよりもダイナミックに生きていたい人がいた場合、

        過去との和解

        • 純粋ではないエネルギーとして身体の各階層から駆逐することができる。そう考えると、純粋な自分に還る作業は様々な可能性を持っている。

        • 過去は時間の流れに押し流されている。 ごく、理性的に向き合うならば、やはりもう戻っては来ないし、過去の出来事自体は今の自分に何の影響力も持っていない。体の反射には何かが残ってしまっているかも知れないが、特に他人の悪意からくるものならば、

        • 当たり前のことを当たり前としてみるのかどうか

          ありのままを見る

          ありのままを見る。と言う事ができると幸せであるという。 何も、力強いスキルを手にするとか、そう言うことでもない。 ただ、そこにいるだけで幸せである時にとても役に立つと言うことを何度か耳にした。 ありのままとはなんだろうか? しかし、人の心は心もとないもので、なかなかこのありのままが掴めない。 しかし、よく感じ、考えてみると、そこには一定の答えがあるように思う。 ありのままとは、「もう既にそこにある全て」だ。と思う。 何か特別な状態にならなくてはならないと言うわけ

          ありのままを見る

          光の梯子

          街並みは静かに翳っていました。 遠くの山々。海の景色。 そして川の向こうに見える天から降りる太陽の光の梯子。 私の心は目の前のタンポポのようでした。 冬に向けて動物たちが冬支度を始めます。 秋のこの季節にはそれが感じられる時があります。 風は生暖かく、この日は季節を感じさせない暖かさでした。 夕方にかけて、太陽の光が訪れなくなってくると、 近くに見える丘や山々はよそよそしくなっていきました。 もう縁がないと思うぐらいに、よそよそしくなり、 私は少しがっかりする気持

          優しすぎる言葉

          秋の空が広がっている。 枯れ葉が道を覆う姿を見る頻度も増してきた。 いよいよ冬支度の時期に入る。 近くの家の人が騒々しい人で、一挙手一投足全てが騒々しい。 私の家族はこういう時、「大丈夫だろうか」と心配になるらしいが、 私も少し心配になってきた。 大丈夫だろうか?そんな言葉を内的に投げかけられる強さを思う。 それに加えて、ある著名人はこうやって言われて育てられたらしい、 「どうしたの?」 普段から気をむけてもらっているのだというのがわかるようなこの質問から、心の中への

          優しすぎる言葉

          アンニュイな夕暮れのひととき

          夕方にかけて、街は暮れかかった雰囲気に包まれている。 昨日とは一変して暖かい1日だった。でも、日差しは寒々していた。 ゆっくりと歩く。と書いた。 なのでそのまま、ゆっくり、ゆっくりと歩く。 足早に通り過ぎていく人たちは、堂々とゆっくり歩くのとは別の風格を持っている。 確たるポリシーを持っているかのような歩の刻み方をしている。 なので私もまた確たるポリシーを持っていると思われている可能性がある。と、類推しながら、街中を歩く速度はゆっくりしたまま夕方にかけてとっぷりと陽は暮れ

          アンニュイな夕暮れのひととき

          夕方にかけて太陽が翳ってきた。今日から11月。街中はいつもと同じように見えるが、雰囲気が一変した。風が冷たくなり、体感温度も下がっている。今日はもう用事がないので、家の中でぬくぬく過ごしたい。ところで「ぬくぬく」ってなんだろうか?(笑)

          夕方にかけて太陽が翳ってきた。今日から11月。街中はいつもと同じように見えるが、雰囲気が一変した。風が冷たくなり、体感温度も下がっている。今日はもう用事がないので、家の中でぬくぬく過ごしたい。ところで「ぬくぬく」ってなんだろうか?(笑)

          浄化の太陽風

          今日は用事があって仙台駅東口まで。 そしてそのままとんぼ返りで勾当台公園から歩いて十分ほどの某所に行き、その後遅い昼食をガネッシュで摂った。 街を歩いていると、紅葉が進んだ街路樹の下のベンチで親子連れが時間を過ごしていた。ベンチに座ろうと思い探していると、太り過ぎのため苦しそうに歩く壮年がコンビニのアイスコーヒーを飲むために次のベンチ、その先も同じように追い越していった人が座り、結局100mほど歩いたところにあるベンチに座ることができた。 太陽は葉擦れの向こうからやって

          浄化の太陽風

          怒りで後ろを振り返るな

          どんどん遠のいていく。 ある知り合い、それもとても懇意にしていてくれたこともあった人が、どんどんと遠のいていくのを感じる。 時期は梅雨下り。街は大雨が降ったり、黄色い日差しが雲を透かして届いていた。 そう言えば、私は何かにコミットしながら、もしくはしておきながら、その仲間グループには一切コミットせず捨て置いてしまっていた事が多々あった。 勿論その人にもそう言うことをしてしまった事がある。 私はできればアウトサイダーでいたい。 その願いが叶ってか、ある頃からか飲み会に

          怒りで後ろを振り返るな

          The answer lies within.

          雲間から雨が降り出していた。 今日は休みなのでゆっくり休もう。と思うも、微妙なタスクが増えてしまい少し困ってしまった。 タスクが終わったので漸く自分の時間を作った。 日々生きていると、「思いのままにならない何か」に触れることになる。 それに対してどう対応するのか、まるで崖っぷちのフィギュアショーのような鬼気迫る心持ちになる。 しかし、漸くわかったのは、 思いにならない何か。の抽象的なレベルの話だが、 「世界の事情を大切にする」のでもなく、 「自我を大切にする」ので

          The answer lies within.

          浄化の雨

          雨が降っている。 土地を濡らす雨は、地下水へ浸透し、川を作り、蒸発して雲になる。 いずれも浄化の過程になぞらえることができる。 雪が降る時はもっとソフトだ。雪は雪あかりとなって街をほんのり浄化する。 以前こんなことがあった。 ある建物で料理会に参加している時、物凄い豪雨が1時間ほど止まなかったことがあった。ビルディングから眺める眺めは、水煙が立ち、さながらブレードランナーの様だった。 その場所は曰く付きの場所で、以前から気になっていたが、それで浄化が起きたのかもし

          夕方のメランコリズム

          安らかな時間が午後の刻を染めている。 時間がこのまま止まって、過去だけを見つめていられたならば。と思う。 ところで、メランコリックでノスタルジックな思いを抱えている人を見ると、思わず見とれてしまうが、そんなに美しい境地はないと思う。 今日、街中を歩いていて思ったのは、人と言うものは足速に通り過ぎていく時間と共に、周りも全く見ないまま歩を進めて目的地を目指すものだと言うことだ。 時間が過ぎ去ったあと、過去を確認しないまま床に臥す。 それは1日の流れであると同時に人生全般

          夕方のメランコリズム

          友達の家、普段はどうなってる?考えた事。

          以前から気になっていたのだが、友達の家に遊びに行くと綺麗だったり汚かったりする。しかし、普段の状態がそれに近いかどうか?というと謎である。 家に遊びに行った時だけ綺麗にしたのか、もしくは汚くなってしまったのか?普段の家に上がらない限りその辺がよく見えない。 一つのホラーの様な感じがする。何食わぬ顔でその部屋の状態がいつもの状態だと言いながら、普段の素顔が見えない。 のっぺらぼうの逸話の様に、怖いものでも目の当たりにした様な気がしてくる。 普段から掃除をしている家であれ

          友達の家、普段はどうなってる?考えた事。

          誰にでも社会的体面というものがあって、少しでも平均的レベルから下がるとそんな自分を晒せなくなってしまう…、と、そんなこと無いかなぁ?と思う。いつでも伸びやかに、自分の声を押し殺すことなくそこにいられれば、きっと自分らしく、何事においてもいつからでも積み重ね可能だと思う。

          誰にでも社会的体面というものがあって、少しでも平均的レベルから下がるとそんな自分を晒せなくなってしまう…、と、そんなこと無いかなぁ?と思う。いつでも伸びやかに、自分の声を押し殺すことなくそこにいられれば、きっと自分らしく、何事においてもいつからでも積み重ね可能だと思う。