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論文『食料、農業、気候変動』を読んで Empson, Martin, 2016, "Food, Agriculture and Climate Change," International Socialism, 152.

論文と著者について

 三日前に書いた「Enough is Enough(もうたくさんだ)とつながったクロアチア戦 |Granada|note」という記事で、「どこかにつながる痕跡」について書いたのだけれど、さっそくまたあらたな痕跡がつけ加わった。それが今からここで紹介する論文であり、著者マーティンとの出会いだ。そういえば、その記事でふれた記事「イギリスの「抗議活動は危険」? 楽しむ強さについて|Granada|note」に書いた10月1日のデモの現場にマーティンはいた。
 論文は以下である。(グーグル翻訳などを使えば日本語でも読める。)

 著者は他にも本を4冊書いていて、発行年順に並べると以下のようになる。(論文掲載誌名や本のタイトルなどはイタリック体にするべきところなのだが、noteではイタリック体が使用できない。)

  • 2014, Land and Labour: Marxism, Ecology and Human History, Bookmarks.

  • 2018, 'Kill all the Gentlemen' Class Struggle and Change in the English Countryside, Bookmarks.

  • 2019,  System Change Not Climate Change: A Revolutionary Response to Environmental Crisis, Bookmarks. (Angus, Ianらとの共著)

  • 2022,  Socialism and Extinction, Bookmarks.

 この論文が掲載されたのは、International Socialismという組織が発行するweb雑誌である。この記事では、この論文の内容紹介とそれに対する簡単な覚書を残しておくことにする。

問題の指摘と代替案

 この論文の重要な指摘の一つが、具体的なアクションを例にあげつつ冒頭で示される。 
 イギリスはヴィーガンの国として知られているが、その啓蒙活動をするグループの主張の一つに「環境への配慮」が含まれている。つまり肉食を避けることにより、環境に負荷をかける畜産への依存を断ち気候変動に歯止めをかける、というものだ。この冒頭での言及は、後段で「肉を食べることが重要なのか?」として再度回収される。もちろん、肉を食べることの是非をここで問うているのではない。ヴィーガンの例で問題にしようとしているのは、「個人の責任への転嫁」なのである。つまり、さまざまな食や農業や環境をめぐる問題を、生産者や消費者の「個人の行動変容」で解決できるかのように問題設定することの問題なのだ。それがいかに問題解決とほど遠いか、いやそれどころか根源的な課題を覆い隠すことにすらなってしまうという指摘が、この論文の大きな柱になっている。
 (ちなみに、論文前半で批判的に紹介されているCowspiracyというドキュメンタリーは、「サステイナビリティの秘密」という邦題でいまでもNetflixで視聴できる。またナオミ・クラインのThis Changes Everythingは、『これがすべてを変える』というタイトルで岩波書店から日本語訳が出ている。)
 さらに続けて、環境に悪影響を与える工業化された農業について、綿密に資料にあたり具体的なデータを積み上げながら論じる。気候変動が農業におよぼす影響についても同じように述べる。ここでの農業には畜産業も含むし、漁業も例外ではない。
 またマルクス『資本論』も引きながら、資本主義と農業の関係も新自由主義政策とのかかわりで論じる。たとえばアメリカのアグロビジネスやそれを支援する政策、余剰穀物の販売などは世界各国に影響を与えている。これに関してつけ加えるなら、とりわけ日本の農業と食卓へのインパクトは大きく、低食糧自給率国であるにもかかわらず農家の存続が脅かされ、総じて食糧安全保障の危機を招いていることについては、近年鈴木宣弘による『農業消滅 農政の失敗がまねく国家存亡の危機』(平凡社新書, 2021年)などでも指摘されているところだ。このようなマクロな話は当然のことながら、私たちの口元まで運ばれてくる食べものの質や量の話しとも直結しており、私たちの生命と健康の問題となる。
 そして最後に、著者によって代替案が示される。
 小農の意義と価値にふれつつも、土地と生産手段の共同所有も含む組織化によって、資本主義下におけるさまざまな問題の解決と私たちの健康な生活の維持に貢献すると結論付けている。
 かなり強引に以上まとめてみたが、詳細は本文にあたっていただきたい。
 日本の現状もかんがみつつ本論を読んで考えたことのメモを、以下簡単に残しておこう。

食べものや農業や環境問題について、政治的態度を保留にしたまま語ることは本来不可能だ

 本論に登場する"System Change not Climate Change"について考えてみよう。この論文の主張するところでもある、気候変動を止めるならシステムを変えなくてはいけないというスローガンである。これだけなら、当然のことを言っているにすぎないように思うかもしれない。はたしてそうだろうか。
 むしろ逆に、システムについて等閑視したまま環境問題に言及する事例の方が、私たちの身の周りにはあまたある。「環境にやさしい消費」が代表例だ。日本の環境政策も「経済成長と両輪」という枠組みでこれまで来ている。つまり、経済システムをはじめとしたシステムはそのまま維持することを前提とした環境政策である。しかしそもそも、論文でも指摘されているように、気候変動なり食糧問題について考えるということは、社会システムについて考えるということを抜きにしてはあり得ず、現システムの問題点をあらためることによってはじめて課題解決につながるはずだ。となるとそれは「政治的なるもの」と深く関わっているはずなのである。
 食料や農業に広げて考えてみても同様のことがいえる。「オーガニックな野菜」も「健康な食べもの」も「安全安心」も「自然豊かな農村」も「地方の生活の豊かさ」も「農作業のすばらしさ」も「環境への配慮」も「地球にやさしく」も「エコ」も「美しい自然」も、政治とは一切切り離した文脈で語ることができている。政治的中立あるいは非政治的なこととして、一切政治色を排除した枠の中で、その素晴らしさや憂慮や実践を語ることが可能になっている。つまり、まったく政治的に無色透明なまま語る、ということがまかりとおっている。
 なぜならそれらは「個人的な消費の問題」として矮小化され、「個人の責任への転嫁」がなされ「個人の行動変容」こそが解決策とされるからだ。しかし著者が指摘するように、徹底的に現資本主義システムにからめとられた農業や食料や気候変動をはじめとした環境問題を、政治的な態度を保留にしたまま語ることは、実は不可能なはずなのだ。
 そして、そうできてしまっていること自体がきわめて政治的である。本来、そして今日ますます、政治と切り離しては語りえないはずのものを、切り離し可能であるかのように語ることができている。システムの変更なしにそれらの維持も実践もできない現状をふまえるなら、政治的な問題を個人の問題に転嫁することをなぜ少なからぬ人びとが実践しているのか、いったいどのようにしてそれが可能となっているのか、そしてなぜそこまでして「政治的なるもの」を切り離したいのか、ということについて考える必要がある。
 重要なのは、ここでいう「政治的なるもの」には、政党や政府や政策や政治家といったものももちろん含むけれども、もっと広い意味での、誰しもの日々の生活の場における権力の不均等な分配や対立を生む力の作用を意味する「政治(ポリティクス)」も含んでいるということだ。この狭義と広義の「政治」が密接にからむことで、私たちにおよぼす働きを強化していることは言うまでもない。
 そうであるにもかかわらず、一切の「政治的なるもの」と関係ないかのように生きる術を身につけていっているのが現代なのだ。
 しかしただちにつけ加えておきたいのは、本当にそう言い切れるのかどうか、ということだ。口に出しにくい状況があり語らないないだけで、実はきわめて政治的な行動と判断を他者に気づかれないくらい小さくおこなっている可能性についても検討する必要があるだろう。 

「それ」だけの問題ではない

 ひとつの問題は、他の問題と切り離されたところで単独で起こるものではない。食糧も農業も気候変動も、単独に切り話して議論できる問題ではありえない。それらの相互的関係については本論でもふれられているが、例えば労働問題や貧困、ジェンダー、人種の問題とも深くかかわっている。
 そしてこのことは、関連する当事者がいかに質的に多様で量的に大きいかということも意味している。このことについて本論では、たとえば2000年代初頭の反資本主義運動や2015年のCOP21(第21回気候変動枠組条約締約国会議)開催時における抗議行動において、環境活動家や各種NGO、労働組合や左翼組織などを含む幅広い社会的勢力が結集したことに言及している。
 そもそも、食糧も農業も気候変動も、万人の生命と生活に関わっている限りにおいて当事者でない人はいないはずなのだ。

家父長制的小農の限界

 本論は小農の重要性にふれつつもその限界についてもみとめ、最終的に「集団的所有」という概念を打ち出している。この点についても考えてみよう。
 小農の必要性や可能性については認めるにしても、そこで目されている典型的な形態は家族的な営農である。農村や農家に限らず、日本社会においてはとくに現代においてもなお家父長制的傾向が強いことは何度指摘しておいてもいい。つまりイエの存続のために家長となる男性が土地を含む財産所有などの権限を掌握し、その権限が代々男子(長男)によって継承されるという制度だ。したがって「嫁」や「娘」や「女性」や「婚外子」がどのようにあつかわれるのか、という話しだ。
 農村においてもろもろの外部の会合など「表」に出るのは男性だし、それぞれの農園の代表名はほとんど男性のみ、だったりもする。農村で何かのイベントが催されそこで何か食事が供されるような「台所の裏方」に従事するのはほとんど女性だ。畑ではともに働いていたとしても。しかしその家父長的システムは、小農というある種の美談によってみごとに隠蔽される。あるいは「日本の古き良き慣習」のひとつとして支持され、ひとりの個人の人生と選択と生活への徹底的侵入を許してきた。
 生産者と消費者が相互に支え合う「提携」というある種先進的な連帯の形が、日本ではすでに有機農家を中心としてすでに1970年代からある。消費者と生産者は、まさに「家族ぐるみ」でつきあうことになる。先進的連帯の場も家父長制とは無縁ではない。継続的に生産がおこなわれるか否かは消費者にとってより重要な関心事になる。そうすると、生産者の家庭の問題、あるいはきわめて個人的なはずの人生の選択が消費者の関心の的になり得る。端的にいうなら「結婚相手はいるのかいないのか」や「出産」「後継ぎ」「男の子か女の子か」といった話題が出てくるのだ。
 農村がいかに美しく語られたとしても、家父長的システムに甘んじることでのみ小農が成立するのなら、先細ることは目に見えている。マンスプレイニングやミソジニー、アンチフェミニズムがはびこる日本社会において、小農の先行きは暗いとしか思えない。いびつに切り取られた「家族の健やかさ」で、はたして日本の農業はもつのだろうか。

集団的所有への展開可能性

 論文でも指摘されているように、ある一定程度の大きさの実行力のあるうねりにしていくためにはやはり、個人の生活の範囲での変容に甘んじるのではない、政治的であることへの気づきと自覚が必要となるのだろう。
 危機的な状況に見舞われていることは、今さら言うまでもない。この論文は6年前に書かれているわけだけれども、それから状況は悪いほうへと加速していると言っていいだろう。気候変動はもちろん地球規模で起こっていることであるし、いわゆる人類全体の問題として語られるものであるが、しかし具体的な政策として考える時、あるいはまたとりわけ食料との関連で考える時、国家という枠組みを取り払うことはできない。気候変動について考える時、地球規模と国レベルでの政策を区別して考える必要がある。
 そして本論で提示される「土地と生産手段の集団所有」は、まったくの夢物語ではなく、日本においても実は各所で芽吹いていると言えるかもしれない。私の知る範囲では、放置されていた棚田を共同で管理して米を生産するといった事例もある。
 土地や食料生産手段を保持継続していくためには、組織として後継者を育てていく必要がある。あるいは新規参入者を受け入れる体制をつくっていくことも重要だ。共有可能な理念をうち立てることで、人を集めることになるだろう。若い営農希望者たちの多くは、工業化された農業を避けようとしている。
 具体的かつ小規模な「集団的所有」の実践例の収集と検討が必要だと論文を読んであらためて考えた。
 

カバー画像の出典は論文掲載サイト


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