『労働騎士団』についての雑考② グランド・マスターの肖像
早速ですが、本記事の冒頭画像は見ていただけましたか?
画像に写る男性の名は、
テレンス・ヴィンセント・パウダリー(Terence Vincent Powderly)。
アメリカ合衆国の労働運動家にして政治活動家。
最も著名な肩書きは、労働騎士団第2代団長(Grand Master Workman)。
今回は彼について、詳述していきます。
※今回、英語版Wikipediaから冒頭画像を引用し、一部の人物情報を参照しています。
※筆者はあくまでもアマチュアです。なので、記述の正確性・確実性には責任がとれません。参考程度にご覧ください。
1.幼少期から労働騎士団加入まで
歴史的英雄・偉人であれば、生まれたときからエピソードの1つや2つはあることでしょう。
例えば、王侯貴族の血を引いていたり、親戚に別の偉人がいたり、などなど。
しかし、パウダリーにはそんな逸話は見当たりません。
ひとまずは庶民の生まれ、と見てよいと思います。
1849年1月22日、ペンシルバニア州カーボンデールの街で、パウダリーは生まれました。
両親は共にアイルランド系移民。
彼自身は、その夫婦が産んだ12人兄弟の11番目でした。
移民の国であるアメリカ合衆国(以下、米国)で、彼の生まれは特段珍しいものではなかったでしょう。
13歳になったパウダリーは、貧しい家庭の子が皆そうであったように、生活のため働き始めます。当初は、デラウェア・アンド・ハドソン鉄道が彼の職場だったようです。
17歳からは地元の親方のもとに弟子入りし、機械工としての経験を積んでいきました。
そんな彼と労働組合との最初の関わりは、1871年。
機械工組合の地元支部に加入したことで、彼の組合活動家としてのキャリアがスタートします。
また、私生活では翌年、ハンナという女性と結婚しました。
しかしながら、組合員としての活動はその後の生活に影を落とし始めます。
1873年恐慌の折、パウダリーは鉄道会社から突然解雇を告げられました。
理由は、彼が組合の支部長であったため。
会社側は不況下に対応した経営を考えたとき、労働者の抵抗運動を扇動しかねない危険分子として、パウダリーの排除に取り掛かったのです。
失職後、世間は不況下ということもあり、パウダリーは新たな仕事をなかなか見つけられずにいました。
また、仮に仕事が見つかったとしても長くは続きません。
というのも、彼が現役の組合活動家だと密告する者がいたらしく、そのたびに職を追われたようなのです。
労働組合が非合法なこの時代、彼は犯罪者じみた扱いを受けながら各地を転々とし続けました。
そんな不安定な暮らしを余儀なくされるパウダリーを救ったのは、とある人物とのコネでした。
ウィリアム・ウォーカー・スクラントン。
パウダリーは、地元で事業を展開するこの実業家と縁がありました。
英語版Wikipediaによると、どうやら彼は最初の就職の際、スクラントン氏の世話になったようです。
兎にも角にも、スクラントン氏の口添えもあって、パウダリーは比較的安定した仕事を得ることが出来ました。
機械工の仕事と組合活動を続けながら、パウダリーはまた、政治活動にも乗り出しています。
1878年、彼はグリーンバック党や労働騎士団の支援のもと、ペンシルバニア州スクラントン(注1)の市長に当選・就任しました。ここは、出生地カーボンデールが属する郡の庁舎もある、それなりの規模の市です。
市長時代の実績・評判は判然としませんが、彼が市長職を3期6年勤め上げた事実を見るに、少なくともそれほど悪いものではなかったと考えられます。
(注1:先に出た実業家の名前と同じですが、まさに彼の一族が市名の由来です。スクラントン家とは、地元ではそれほどの名士だったのでしょう。)
本節の最後に、パウダリーの市長就任を後押しした、グリーンバック党という聞きなれない政党について補足を。
すっかり二大政党制が定着しているイメージの米国ですが、全ての人々がその状況に満足しているわけではありません。
今日に至るまで、しばしば第三政党を立てようという動きが(主流派にはなれないまでも)続いてきました。
特に、南北戦争後のこの時期は顕著です。
奴隷解放を達成したことで落ち着いてしまった共和党(注2)に不満を感じた人々は、次々に第三政党を立ち上げていきました。
グリーンバック党は、その第三政党運動の一角をなす新興政党です。
(注2:当時の共和党は今日のような保守政党ではなく、進歩主義政党でした。)
党名の由来である「グリーンバック」とは、南北戦争時に大量発行された不兌換の戦時紙幣のことです。
印刷時の手間と材料を省く目的で表面のみ印字され、裏面には緑色インクで偽造防止処置が施されていました。
ゆえに、「グリーンバック(Greenback)」というわけです。
南北戦争後、不兌換紙幣の乱発は見直されることになりました。
紙幣への信頼を金との兌換性に求めていた当時、グリーンバックは内戦という非常時の措置でしたので、ごくごく自然な成り行きです。
しかし、これを良しとしない人々がいました。
債務を抱える農民たちです。
通貨流通量が地金保有高に制限される場合、基本的に経済にとっては金融引き締め効果(デフレ圧力)として現れます。
しかしそんな情勢下では、いくら懸命に商品作物を生産しても、満足な価格で売ることはできません。
ましてや債務返済など、とても覚束ない……。
したがって、彼らは自分たちに有利なインフレを、それを呼び込む通貨流通量の拡大を望みました。
そんな彼らグリーンバック党は、誕生の経緯からして農民政党でした。
ただ、農民だけで寄り集まっても、二大政党には中々歯が立ちません。
そのため、同じように社会変革を望んだ労働者とも手を組んだのです。
2.騎士、そしてグランド・マスターとして
少し時間を遡って1874年。
この年、パウダリーは労働騎士団(以下、騎士団)に加入しました。
彼は所属地区の指導者を経て、1879年に第2代騎士団長に選出されます。
当時の騎士団は、1万人ほどの人員を抱える労働組合でした。
団長となった彼はまず、騎士団の組織改革に取り組んでいきます。
そもそも騎士団の初代団長ユライア・スティーブンズは、宗教的・神秘主義的な背景を持つ人物でした。
幼少期にはバプテスト(プロテスタントの一派)の両親のもと、牧師になるための教育を受けました。また、長じてからはフリーメイソンの影響を受け、その秘密儀式を騎士団に取り入れています。
騎士団が儀式主義・秘密主義を重んずる秘密結社としてスタートしたことは、前回記述したとおりです。
しかし、このような騎士団の在り方を胡散臭く見ていたものがありました。
カトリック教会 です。
伝統的権威であるカトリック教会は、自由主義的要素を内包するフリーメイソンを危険視していたのです。
パウダリーは、このような状況を苦々しく思っていました。
なぜならば、彼自身アイルランド系カトリックであり、同じ信仰を持つ労働者たちが騎士団加入に二の足を踏むことをよく知っていたからです。
彼らを取り込むことが騎士団の発展につながると考えたパウダリーは、弾圧の危険を承知の上で、組織公開と秘密儀式の撤廃に踏み切りました。
この決断の正しさは、公開以降の騎士団の飛躍的発展という形で証明されることとなります。
また、労働組合の指導者として眺めた場合、パウダリーは少々奇妙なリーダーでした。
というのも彼は、
闘争手段としてのストライキの積極的活用をしばしば戒めた からです。
さらに言えば、彼は騎士団を資本家に対する戦闘的な集団としてよりもむしろ、労働者を教育・啓蒙する場として重視していた節があります。
当時の過酷な労働環境を前にして、このように穏健な、あるいは消極的で弱腰ともとれる態度。
「一体、何がやりたいの?」と思われることでしょう。
ただ、そこには彼なりの信念と合理性。
ひいては、当時の米国において一定の影響力を保った、ある世界観が関わっています。
「生産者階級」。
決して「労働者階級」の書き間違いではありません。
労働者、農民、そして中小の自営業者。
生産者階級とは、これら生産に直接関わる全ての働く人々を包括する階級観でした。
これに対置されるのが、「非生産者階級」。
すなわち、貴族的特権階級や独占的資本です。
語弊を恐れず言えば、「ただ座っているだけで暮らせる人々」とでも表現できましょうか。
ともあれパウダリーは、社会主義的な「階級闘争」という現実認識に与しませんでした。
彼に言わせれば、独占的資本との対決を除いて、「階級闘争」と呼ばれるものの多くが、生産者同士の潰し合いという悲劇だったのですから。
その世界観において、労働者の無闇なストライキは、中小事業者という別の生産者の利益を損ねるものでした。
そのため彼は、破壊的なストライキよりも建設的な労使間交渉を志向し、労使間の仲介にはむしろ積極的に乗り出しました。
もちろん、このような現実ズレした観念と、それに基づく組織指導は、後世の人々から批判の対象となりました。
また同時代においても、その「甘さ」は結局命取りとなりました。
前回、騎士団の急激な凋落・解体について記述しましたが、彼が示した非戦闘的な態度もまた、現場の多くの労働者たちの失望を招いた一因なのです。
しかし、この「生産者階級」という視座は、騎士団全体のイデオロギー・組織形態と密接に関わってくることもまた事実です。
次回、改めて記述したいと考えています。
さて、パウダリーはもうひとつ、特筆すべき方針を示しました。
すなわち、中国人排斥運動への積極的関与です。
当時の米国・西海岸(特にカリフォルニア州)には、多数の中国人労働者が押し寄せていました。
彼らは「苦力(クーリー)」とも呼ばれます。
ゴールドラッシュ・大陸横断鉄道の建設を契機として到来しはじめた彼らは、資本家にとってはありがたい安価な労働力でした。
しかし、米国人労働者からは自分たちの仕事を奪い、賃金を押し下げる怨敵とみなされていました。中国人労働者がスト破り要員として度々用いられていたことも、彼らの印象を悪くしていたことでしょう。
このような背景から、パウダリーが騎士団の指導者となる以前から、現地の労働組合では既に中国人排斥が盛んに叫ばれていました。
事実、1882年には「中国人排斥法(排華移民法)」が成立するほど、その勢いは増していたのです。
ただ、中国人排斥法成立後も不法移民としての流入は止まらず、依然として労働組合指導者たちの頭を悩ます問題であり続けていました。
パウダリー率いる騎士団もまた、大勢に乗って中国人排斥運動に参画する道を選びました。
1885年、オンタリオ州ハミルトンで行われた騎士団の年次総会において、パウダリーは「中国人の害悪(Chinese Evil)」と題した演説を打っています。
ここからは、パウダリーの中国人問題への姿勢が見て取れます。
重要なこととして、この総会が行われた前の月、ワイオミング準州ロックスプリングスで騎士団員が関わる暴動事件が発生したことを念頭に置かなければなりません。
その内容とは、騎士団員が白人の炭鉱労働者たちを扇動し、同じ鉱山で働く中国人労働者を襲撃、多数の死傷者を出したというもの。
パウダリーは演説の中で、暴動事件を「立法者が人々の正当な救済要求に無関心であった」ことにより発生したと言明しました。
事実上、暴動の首謀者たちを擁護したのです。
また、中国人を指して「米国の自由労働を退行させようとする者たちの手先」と痛烈な批判も加えています。
更に付け加えるのならば。
騎士団内部の有力な支部が提案してきた中国人組織化案に対し、「彼らが米国に居住することは好ましくもないし、ふさわしくもない。よって、彼らが騎士団に加入することなど認めるべきではない」と言い放ったことでも、パウダリーの立場は説明できるでしょう。
ともあれ、なんだかんだありつつも、中国人労働者の流入には一定の歯止めがかかったことは事実です。
しかし、米国人労働者たちには安堵する暇さえ与えられませんでした。
なぜならば、安価な労働力への需要を代わりに満たす存在がすぐに出てきたのですから。
米国人労働者の前に、彼らは"中国人と同じような顔"をして現れました。
それは何を隠そう、日本人移民です。
3.その後の人生と、書き損ねたこと
1893年に団長の地位を追われたパウダリーは、その後どのように過ごしたのでしょう?
彼はひとまず、法律家として身を立てることに成功したようです。
その後、騎士団時代に関わった移民労働者の研究実績に目を付けられ、入国管理局職員・特別移民検査官・合衆国移民局情報部門チーフを歴任するなど、政府関係者として晩年を過ごしました。
そして、1924年6月24日。
ワシントンD.C.にある自宅にて、75年の生涯に幕を下ろしました。
彼の亡骸は今も、かの地にある墓地に眠っています。
……さて、話の流れの中で書き損ねたことがありますので、何点か。
パウダリーは元来、貧しい出身の賃金労働者でした。
ただ、中産階級(プチブルジョワ)的な部分もあわせ持っていたことが指摘されます。
先述した通り、彼はスクラントン市長を務めましたし、1883年には義兄の遺産であるコーヒー事業を引き継いだりもしています(短期間で手放したようですが)。
また、スクラントンといえば、英語版Wikipediaで彼の邸宅が現存していることを発見しました。
現在は国指定の歴史建造物に指定されているとのことですが、私邸につき一般公開はしていないそうです。
追記:
中国人排斥運動への積極的関与については先述しましたが、パウダリーが白人至上主義者であったと言い切ることには、いささかの疑問が残ります。
というのも、彼が率いた騎士団は中国人労働者を排除した一方、黒人労働者を組織化し、その権利擁護を訴えることには前向きだったからです。
この一見して矛盾するように思われる他人種への態度に関しては、また回を改めて記述したいと考えています。
4.パウダリーの歴史的評価
歴史の敗者である彼は、長年にわたり芳しい評価をされてきませんでした。
特に旧来の米国労働史学で重きをなしたウィスコンシン学派では、のちに実利的路線をとって成功したAFLが肯定的に評価される反面、騎士団の指導者パウダリーは時代錯誤かつ非現実的な改革者とみなされてきたといいます。
しかし、1970年代以降、潮目が変わります。
社会史研究の隆盛に影響を受けた新労働史学において、かつての見解を克服するように騎士団を肯定的に捉える研究が現れ始めたのです。
特に、それまで騎士団衰退の責任を一身に背負わされてきたパウダリーの評価は、騎士団内部の多様性・内部抗争の存在を考慮したうえでのものに変化していきました。
リチャード・ウーストライカー(Richard Oestreicher)は、その中でも代表的な研究者で、パウダリーの非現実的な部分を指摘しつつも、社会変革まで見据えた労働組合(注3)を構築することに成功した有能な指導者と評価しています。
(注3:のちの回で触れる予定ですが、米国労働界の主役に躍り出たAFLは「ビジネス・ユニオニズム」という労使協調的な実利路線をとり、社会変革への志向を弱めていきます。)
この辺りの研究事情については、ネットで手っ取り早く読める資料として、竹田 有 『労働騎士団再考 ――最近の研究から――』があります(「労働騎士団」でGoogle検索すれば、上のほうに出てきます)。
また、ミネルヴァ書房から刊行されている同著者の『アメリカ労働民衆の世界:労働史と都市史の交差するところ』がより詳しいと思われます。
ただし、前者は2003年、後者も2010年時点の研究動向ですので、現在読むとなるとかなりのタイムラグは否めません。
5.次回予告
今回、英語版Wikipediaを参照するなど、改めてパウダリーの人となりに触れ直す機会を得ました。
彼がスクラントン市長を務めたことがあるのは知っていたのですが、スクラントン氏なる実業家とのつながりがあることは初見でして、新鮮な印象を持ちました。
あと、家が残ってるんですね。知らなかった……。
次回は労働騎士団のイデオロギーについて記述したいと思います。
今回触れた「生産者階級」の視点が大いに関係してきます。
キーワードは、「労働共和主義」。そして、「賃金奴隷制」です。
※冒頭でも触れましたが、筆者はアマチュアです。それが免罪符になるわけではありませんが、知識不足・認識間違いなど多々あろうかと思います。お気づきの点があれば、ご指摘いただけると助かります。
『カニンガムの法則』ということで、是非。
また、基本的に思想信条に関する指摘は御免こうむります。一度始めるとキリがありませんので、ヒラにご容赦。
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