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『労働騎士団』についての雑考③ “私の雇い主”とは何者か?

労働騎士団(以下、騎士団)の歴史的評価が、1970年代を境に、従前の全否定的なものから(相対的に)肯定的なそれへと変化してきたのは前回触れたとおりです。
騎士団の実態について、社会史研究の手法によって明らかにしようとした新労働史学の成果は、次の2点において特徴的でした。

①「生産者階級」の連帯を目指す「労働共和主義」を騎士団の公式イデオロギーとして規定している点。

②騎士団に多様な思想的潮流を包摂する“傘”としての機能を見出している点。

前回ご紹介した参考文献の著者である竹田有によると、このうち「労働共和主義」とは、「プロテスタント的労働倫理に生産者階級論と労働価値説が合体したもの」と定義されるといいます。
本記事においては、この定義を前提として各要素の解題を行います。
そのうえで、労働共和主義が目指した理想と、その前に立ちふさがった「賃金奴隷制」という現実とのギャップについて記述していきます。

なお、今回はこれまでにもまして筆者個人の解釈が入り込んでいます。
どうか批判的視点を最後まで持ってお読みいただければ幸いです。

※筆者はあくまでもアマチュアです。なので、記述の正確性・確実性には責任がとれません。参考程度にご覧ください。

1.プロテスタント的労働倫理

プロテスタント的労働倫理といえば、ドイツの社会学者マックス・ウェーバーが著した「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(通称:プロ倫)を思い浮かべた方が多いと思われます。
ここでは、その要旨を交えて記述する……、つもりだったのですが、本節のために軽く調べ直してみたところで「大穴」にハマりました。

それは「ウェーバー・テーゼ」の“誤解釈”
すなわち、「プロテスタンティズムが資本主義の発展をもたらした」ことをプロ倫は明らかにしているという解釈が、実は専門家に言わせると典型的な誤読・誤解であるという話。
ウェーバーとしては、そんな問題設定してないし、結論でもそんなこと言ってないよ、とのこと。
あくまでも、プロテスタンティズムの倫理観における要素が、近代資本主義の成立に精神的側面から影響を与えた、というのが内容の本筋のようです。
※参照資料
三笘利幸「マックス・ヴェーバーと『近代文化』:『倫理』論文は何を問うのか(1)」

正直なところ、大変動揺しました。図星でしたので。
と同時に、「あっ、コレは深入りしたら危険なやつだ」とも。
最近の売れてる解説本にも誤解が溢れかえってるとかいわれたら、もう素人の手に負えたもんじゃありません。

そのため、以下では「誤解」を承知の上での解釈を示します。
全くもって学問的真摯さ・誠実さに欠ける態度で恐縮なのですが、本記事の主題はあくまで騎士団についてですので、割り切らせてください。
本当に申し訳ないです……。

さて、本題です。
ウェーバーは本著作において、近代資本主義精神の淵源を、プロテスタンティズム(カルヴァン主義)の合理的禁欲に求めています。

そもそもカルヴァン主義において、各人が神によって救われるかどうかは、生まれる前から既に神によって決められている(予定説)とされます。
これは「善行を積めば極楽に行けるが、悪行を繰り返せば地獄に落ちる」という因果論とは全く正反対の考え方です。

どうしてこのような教説(予定説)があるのかというと、因果論的な考え方では、人々によって神が「自分が救われるための道具」として扱われるからです。
人間ごときが現世で善行をいくら積もうとも、神の判断はそんなものに左右されるはずがない。なぜならば神とは至上の絶対者として存在するのだから、と考えるのがプロテスタンティズムなのです。
あるいは予定説とは、人々と神との間を取り持つことで権威を確立したカトリック教会に対し、プロテスタント勢力が突きつけなければならないアンチ・テーゼであったと見ることができるかもしれません。

しかし、ここでひとつの疑問が湧きます。
自分が救われるかどうかが既に決まっているなら、別に現世では勤勉な善人である必要はありません。どんなに頑張っても救われるとは限らないのですから。
それどころか、どんなに悪行に手を染めても、どんなに快楽に溺れても、救われる人は救われるのです。
ここまで考えれば次のような問いが出るのは、きっと自然なことでしょう。

「予定説」とは、ともすれば社会モラルの崩壊を引き起こしかねない危険性を秘めているのではないか? と。

実際の歴史は、しかし、この疑問に対して明確に「NO」を示します。
プロテスタント社会は、モラル崩壊を起こすことなどありませんでした。
それどころか、プロテスタント社会は産業革命期以降の近代資本主義(いいかえれば、近代的な社会規律)にいちはやく対応していきました。彼らに後れを取ったのは、むしろカトリック信徒社会の方なのです。

なぜこのようなことが起こったのか?
ウェーバーは、次のように説明します。

予定説は当然のことながら、人々を大きな不安の中に陥れました。
自分が本当に救われるのか、誰も教えてくれず、そのときになってみないと分からないなんて! 誰もが不安で仕様がありません。
しかしながら人間とは、常に不安を感じながら生きていくということはできない生き物です。
そこでやむなく、ひとつの「発想の逆転」に至りました。
すなわち、「神によって救われる人間であれば、現世においても神の意志にかなった行いをするはずだ」と。
自分が終末において救われているという確信を、たとえ苦し紛れであっても現世の営みの中に求めたのです。

そのとき、人々の手がかりになったのは「天職」という概念でした。
つまり、神から与えられた使命としての労働です。
現実社会の中で労働に一生懸命に励み、社会に奉仕・貢献すること。それが、現世において神の意志を実現することであり、ひいては自身が神に救われているという確信を得ることにつながったのです。

このとき、プロテスタントの人々には、神の栄光を現世に示すという非合理的な目的を最大限達成するため、むしろ労働を出来る限り効率化・合理化するというインセンティブが働いたと見ることができます。
救われている確信を最大限に得るため、時間を節約し、財産を節約し、労働の成果を最大化する。
このような姿勢こそが先に出た合理的禁欲であり、いうまでもなく近代資本主義が要求する人物像に合致していたのだと、ウェーバーは指摘したのです。

また同時に、上記のような流れは別の効果ももたらしました。
それは、「利潤獲得の肯定」です。

そもそもの話、キリスト教において、金儲けとは肯定されるものではありませんでした。プロテスタンティズム(カルヴァン主義)でもそれは同じで、むしろその傾向がより強まります。
しかしながら、合理的禁欲に基づく天職への邁進は、あくまでも神への信仰の体現を主目的とします。ただ、「結果として」「副産物として」、金銭的報酬・利潤が得られるだけなのです。
そして、得られた報酬・利潤を、更なる労働の成果のために投資するのであれば、それもまた神への信仰の表れと言えるでしょう。
この文脈において、利潤獲得と更なる利潤のための再投資は、信仰と矛盾なく肯定されることとなります。
そして当然、近代資本主義における利潤獲得もまた、ここに肯定されることとなったのです。

ここで本当の本題、騎士団の話に戻りましょう。

ウェーバーの指摘によれば、以上のような経緯で、プロテスタント社会において労働の奨励と利潤獲得の肯定がなされました。歴史的にプロテスタントの影響が強いアメリカ合衆国(以下、米国)でも、これは同じと考えてよいでしょう。
自分の仕事に一生懸命従事し、その成果として利潤を得る。
このとき、利潤はあくまでも「副産物」ですが、同時にどれだけ労働にいそしんだかという分かりやすいバロメータでもあります。
そうである以上、たくさん稼いだ人ほど模範的な職業者であるともみなされるのは、どうも仕方ないといえるでしょう。

しかし、ここまではあくまでも一般的な人々の場合です。
ある一定以上の大資本家の場合を見てみましょう。

大資本家たちは、その名の通り、巨大な資本を駆使して巨額の利潤を稼ぎ出します。
これまでの話の流れからすれば、利潤はどれだけ労働にいそしんだかという明白なバロメータのはずですから、大資本家はきっとそれだけ巨大な労働をこなしたはずです。
……はずですが、それは本当でしょうか?

実際のところ、そんなことはないでしょう。
大資本家は多くの労働者を雇い入れ、現場労働の大部分は彼らがこなしています。畢竟、稼ぎ出された巨額の利潤とは、数多くの人々の労働の上に成り立っているのです。

もちろん、大資本家は何の努力もせずに稼いだのではありません。
けれども、その巨額の利潤が、すでに現場労働から遊離している彼一人の労働に由来すると考えることもまた困難であるのは言うまでもないでしょう。

この大資本家の場合における、労働と利潤の不均衡
先に見た通り、プロテスタンティズムにおける利潤追求とは、(神への信仰としての)労働の成果である限りにおいて肯定されていました。

ならばもし、労働に見合った以上の利潤を得ていたのだとしたら?

ここにおいて、騎士団が道徳的問題を提起する素地が生まれてきます。

2.生産者階級論

前回、騎士団第2代団長テレンス・パウダリーの人物像に触れる中で、本節で記述すべき内容には大方触れました。
ここでは簡単な振り返りと、補足をしていきます。

生産者階級とは、文字通り、生産活動に直接的に従事する人々を指す階級概念です。具体的に言えば、労働者・農民・中小の自営業者がそれにあたります。

この概念では大前提として、生産者階級内部の流動性が維持されているとみなしています。
つまり、はじめは労働者であっても、努力次第では自営業者に上昇することもできるとするのです。
このような現実認識であるからこそ、パウダリーは、労使間対立のほとんどは生産者同士のつぶし合いであって、本質的に無意味であるという考えに行き着きました。

また、同時にこの生産者階級という枠組みは、一般組合という騎士団の組織的特徴も説明しています。
生産者である限り利害は一致する。
この感覚は、様々な属性の働く人々を組織化する理論的背景であり、その動機付けともなったのです。

そんな騎士団が批判の矛先を向けたのが、「怠惰で寄生的な非生産者」とみなした人々でした。
具体的に挙げれば、銀行家、弁護士、株式ブローカー、アルコール製造・販売業者(注1)、ギャンブラーであり、彼らは騎士団から排除されました。
(注1:アルコール事業者を排除したのは、多分に当時の社会改善運動の影響があると思われます。1869年には第三政党運動の一角として禁酒党が誕生しており、のちの禁酒法制定につながるムーブメントが起こっていました。)

3.労働価値説、および総括

この場合の労働価値説とは単純明快で、あらゆる商品の価値を生み出すのは労働であるから、「生産者階級」がその価値を取得すべきであるという主張です。
労働に見合った報酬を、という点では、第1節で触れた内容と通じるともいえるでしょう。

以上に挙げてきた三要素が結合したものが、「労働共和主義」の思想的性格と言えます。

後出しとなりますが、度々引用させていただいている竹田有の著書『アメリカ労働民衆の世界:労働史と都市史の交差するところ』では、労働共和主義を構成するプロテスタント的労働倫理について、「勤勉・質素・禁酒などの実践を通じて努力した者のみが、独立した『自由な』財産所有者として成功を収めることができる、というもの」と説明されています。
本記事第1節では字義通りに受け取って「プロ倫」に触れながら説明を試みましたが、竹田有の説明において注目すべきは「独立した『自由な』財産所有者」として成功することが理想視されている点です。

まず、財産所有者としての成功が理想であるという点から、資本主義的成功を肯定する考え方であったと指摘することができるでしょう。ここにおいて、労働共和主義が目指すところは、必ずしも社会主義・共産主義な革命ではなかったとみなすことができます。

また、独立・自由というキーワードからは、初期共和国の理想としての『独立自営農民』とのつながりが意識されます。
米国史において、北米大陸西部に広がる「フロンティア」(注2)という未開拓地域の存在は無視できない社会的条件でした。というのも、フロンティアが存在する限りにおいて、人々はいつでも西部へ移住し、そこで自分自身の土地を手に入れて独立・自由を手に入れることが可能だと思われていたからです。
現実としてそれでやっていけるのかという問題はあります。
ただ、いざとなれば現在おかれた不遇な環境を捨て、新天地で一発逆転を狙えるという可能性は、人々の精神的なよりどころ・社会的な不満の安全弁として米国社会で機能していたのです。
これは既に土地所有権が確立され、階層的な流動性に乏しいヨーロッパ諸国にはない社会的余白でした。
(注2:米国の国勢調査局は、「1平方マイルあたりの人口が2人以上6人以下の地域」をフロンティアの定義としていました。なお、この場合の人口には先住民を含めません)

このように見てくると、労働共和主義とは、必ずしも進歩的な思想とは言えないことがわかってくると思います。
むしろ、米国建設当初の理想的な市民社会に立ち返ろうとする、一種の復古主義と捉えるほうが自然と言えるのではないでしょうか?

4.『賃金奴隷制』という悪夢

しかしながら、近代資本主義・工業化の進展は、そのような理想と乖離する方向へと向かっていきます。

すなわち、賃金労働制の一般化です。
大資本家のもと、賃金労働はより大規模に、よりシステマティックに行われるようになっていったのです。

ですが、そこに労働共和主義が理想とする自由な労働など存在するのでしょうか?
完全に支配下に置かれた労働者に、努力によって独立・自由を勝ち取れる可能性が残されているでしょうか?
そもそも、労働の成果は大資本家にあらかた収奪され、労働者は不十分な賃金に甘んじてはいないでしょうか?

ここにおいて賃金労働制とは、本来自由に働くべき人々を「賃金奴隷」として大資本家の従属下に貶める不道徳なシステムとみなされることとなりました。
ゆえに、賃金労働制=「賃金奴隷制」なのです。

また同時代の社会背景として、1890年には国勢調査によりフロンティアの消滅が宣言されていることも頭に入れておくべきでしょう。
米国社会はついに社会的余白を失い、人々が限られたパイの中で勝負しなければならない段階へと移行しつつあったのです。

そのような時代の流れの中で騎士団は、奴隷状態に置かれた人々を啓蒙し、団結させることで、自由労働を取り戻す必要があると認識しました。
それは、労働共和主義の視点から言い直せば、「各人を自らの雇用者に戻す」ことに他なりません。

騎士団は具体的には、生産・消費協同組合を樹立することで、人々が賃金奴隷制から解放されると主張したといいます。
たとえ個々人レベルでは大資本家に勝てなくとも、生産者階級の結集によって企業家として社会的上昇を果たし、賃金労働制を克服しようとしたのです。
ここでは、あくまでも各々の財産・生産手段は留保したまま、というのがポイントです。彼らは決して資本主義社会そのものの転覆を望んだわけではなかったのです。

5.敗れ去った理想

第1回の繰り返しとなりますが、労働共和主義を掲げた騎士団は最終的に敗北しました。
そこには、政府・資本家による弾圧という外的要因、路線対立・分離独立といった内的要因が大きく関わっています。

ただ、思想面のみについて言及するのであれば、労働共和主義の理想が、変わりゆく時代のニーズに合致しなくなっていたことが指摘できるでしょう。
賃金労働制が現実として定着し、中産階級と労働者階級という区分が明確に表れてくると、「生産者階級」という曖昧な枠組みとそこに立脚する騎士団の在り方はあまりにも中途半端なものでしかありませんでした。

騎士団の指導者パウダリーは、基本的に戦闘的なストライキを好まず、交渉によって労使間対立が穏便に解消されることを望みました。
それは労働者たちからすれば、中産階級に配慮しすぎた態度でした。賃金・労働時間などの現実的な困難を抱える彼らにとって、抑圧的な資本家を相手に、そのような迂遠な解決などとても待ってはいられなかったのです。
しかし、だからといってパウダリーが労働者階級に肩入れすれば正解だったのでもありません。そうすればきっと、騎士団に参加していた中産階級の人々は、組織が労働者の色に染まっていくことに我慢ならなくなったはずです。

結局のところ、騎士団は自らの性質ゆえに方途に窮し、労働共和主義はここに思想的限界を迎えたのです。

6.次回予告

今回はプロ倫の内容に触れようとした結果、大変長ったらしく読みにくい記述になってしまいました……。文章的にも、竜頭蛇尾はなはだしいと感じています。
時間を置いて振り返り、どこかの段階で修正を入れたいところです。

次回は騎士団の「人種を越えた連携の試み」について記述する予定です。
第2回で触れた通り、騎士団は中国人排斥運動に加担しており、その点だけ抜き出すと人種差別的集団にも見えることでしょう。
その一方で、生産者階級論に基づき、黒人労働者との連帯を目指した側面もありました。
南北戦争後、奴隷から解放された黒人の置かれた状況も踏まえつつ、騎士団と黒人労働者のかかわりについて書くことができれば、と考えています。

※冒頭でも触れましたが、筆者はアマチュアです。それが免罪符になるわけではありませんが、知識不足・認識間違いなど多々あろうかと思います。お気づきの点があれば、ご指摘いただけると助かります。
『カニンガムの法則』ということで、是非。
また、基本的に思想信条に関する指摘は御免こうむります。一度始めるとキリがありませんので、ヒラにご容赦。

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