真夏の死(浅野浩二の小説)

「夏の豪華な真盛りの間には、われらはより深く死に動かされる」
(シャルル・ボードレール)

そこのビーチには、毎夏、老人がビーチに来てじっと座って、海水浴客を眺めていた。老人はいつも一人だった。
京子は海が好きで、夏は休日には毎回、そのビーチに行った。前回、来た時もそうだったが、今日も老人は一人で寂しそうに座っていた。ビーチにはサザンの曲がはでに流れていた。京子がチラと老人の方を見ると、老人はあわてて顔をそらした。自分を見ていたのだな、と思うと京子の心に朗らかな笑顔が起こった。京子はビキニの胸を揺らして老人の所に行った。
「あの。おじいさん。となりに座ってもいいでしょうか」
京子が笑顔で聞くと、老人は少し顔をそむけて顔を下に向けた。それは肯定の意味に見えた。京子は老人のとなりにチョコンと座った。相手がナンパ男なら、そんな話しかける勇気は持てなかった。だが老人という存在は安全だった。それが京子に行動を起こさせる勇気を与えたのである。京子は、老人は、妻に先立たれて、若い時、この海で二人で戯れた昔を懐かしんでいるのだと思った。京子は老人から、そんなロマンチックな思い出話を聞きたく思った。
「おじいさん。少しお話しませんか」
京子は老人に話しかけた。だが老人は黙っている。
「おじいさん。この海、昔と今とどうですか」
京子は黙っている老人に遠慮なく話しかけた。だが老人は黙っている。
「おじいさんの奥さんて、すごくきれいな人だっんでしょう」
「いや」
老人はサッと首を振った。老人が、はじめて答えたので京子は嬉しくなった。京子は、「いや」の意味が解らなかった。きれい、だと聞いたから、そうではないと謙遜か本当か否定したのだと思った。京子はつづけて聞いた。
「お孫さんはおいくつですか」
「いや。わしには誰もいない。わし一人きりだ」
「ごめんなさい。おじいさん。失礼なこと聞いちゃって」
京子はペコペコ頭を下げた。
「いいんじゃよ。気になさらんでくれ」
老人は手を振った。京子は老人がどういう境遇なのか知りたく思った。だが、あまり、知られたくない事があるに違いなく、根掘り葉掘り聞くのは失礼だと思って黙っていた。その京子の思いを察したかのように老人は口を開いた。
「恥ずかしいが、私の話を聞いてくださるかの」
老人の方から京子に話しかけたので、京子は嬉しくなって元気に、
「はい」
と答えた。老人は話し出した。
「わしは、結婚はおろか、恋人も一人も出来なかった。わしは生まれてからずっと孤独で、この海を見ていた。わしは、年甲斐もなく、あんたのような若いきれいな女の人を、見に来ているんじゃよ」
京子は、聞いて嬉しくなった。
「私に話しかけてくれたのは、あんたがはじめてじゃ。あんたのような、きれいな人に話しかけてもらって、わしはすごく嬉しいんじゃよ」
京子は、きれいと言われて一層、嬉しくなった。
「でも、あんたも、素敵な彼氏がいるんじゃろ」
老人は少し恨めしそうな口調で言った。
「ううん。いないわ」
京子は元気に答えた。
「おじいさん。私でよろしかったら、今日、付き合って下さいませんか」
京子は笑顔で老人に言った。
「ありがとう。あんたのような、きれいな人と夏の海を一緒に出来るなんて、わしゃ、幸せじゃよ」
老人は涙を浮かべていた。
「あん。おじいさん。泣かないで」
そう言って京子は老人の皺の寄った瞼の涙を瑞々しい手で拭った。
「おじいさん。何か、買ってくるわね」
京子は、海の家に走った。京子は焼き蕎麦、二包みとオレンジジュースを胸の前にかかえて、小走りに戻ってきた。
「焼き蕎麦にしちゃったけれど、よかったかしら」
「ああ。ありがとう。わしは引っ込み思案で、内気で、とても、一人で海の家に入る事なんか出来んよ」
「どうして」
「夏の海は若者のものじゃから、わしは余所者なんじゃよ」
「そんなことないわ。ともかく、冷めないうちに食べましょう」
そう言って京子は焼き蕎麦とオレンジジュースを老人に渡した。二人は焼き蕎麦を食べだした。
「ああ。わしは最高に幸せじゃよ。こんなきれいな人と一緒に夏の一時をすごせるなんて」
京子は、食べながら微笑した。食べおわると、京子は空になったパックと空き缶を持って行ってゴミ箱に捨てた。そしてすぐに戻ってきた。
「おじいさん。私のビーチシートに来てくださる?」
「ああ。ありがとう」
二人は立ち上がった。京子は老人の手を曳いてビーチシートへ行った。
京子はシートの上にペタンと座った。
「おじいさんも座って」
言われて老人も京子の横に座った。
「私、少し体、焼きたいんだけどいいかしら」
「ああ。いいとも。夏はうんと体を焼いて体を丈夫にしなされ」
老人に言われて京子はニコッと微笑してビーチシートの上にうつ伏せに寝た。
柔らかて弾力のある大きく盛り上った尻がピチピチのビキニでかろうじて覆われているだけで、しかも小さなビキニは尻にピッタリくっついているだけで、ほとんど裸同然だった。京子の体は美しかった。
スラリと伸びたしなやかな脚。細い華奢なつくりの腕と肩。細くくびれたウェスト。それとは対照的に太腿から尻には余剰と思われるほどたっぷりついている弾力のある柔らかい尻の肉。それらが全体として美しい女の肉体の稜線を形づくっていた。京子は、あたかも自分の肉体を自慢して、老人を挑発しているかのように、顔を反対側に向け気持ちよさそうに目を瞑っている。老人は間近に若い弾力のある瑞々しい肉体を見て思わずゴクリと唾を呑み込んだ。
「おじいさん。オイルを塗って下さらない」
京子が言った。ビーチシートの上には日焼け用オイルがあった。老人は遠慮しがちにそれをとった。
老人の目の前には華奢な背中とビキニに包まれた大きな尻とスラリと伸びた脚が横たわっている。
老人は興奮した。京子は無防備に目をつぶって裸同然の体を無防備に晒している。老人はゴクリと唾を呑んで美しい女の体の脚線美をしげしげと眺めた。
「い、いいのかね」
老人は緊張した口調で声を震わせて念を押すように聞いた。
「いいわ。好きなようにして」
「で、では。塗らせてもらうよ」
老人は京子の華奢な背中にオイルをたらし、ぬった。
京子は気持ちよさそうに老人に体を任せて目をつぶっている。
老人の手は興奮と緊張のためブルブル震えていた。
老人が背中にオイルをぬりおわった頃、京子は目をつぶって、うつむいたまま言った。
「おじいさん」
「な、なんじゃね」
「下もお願いします」
「い、いいのかね」
老人は念を押すように言った。
「いいわ。お願い。ぬって」
京子はねだるように言った。
老人は手を震わせながら京子の脹脛にオイルをぬった。
ぬりおわった頃、京子はまた、うつむいたまま言った。
「おじいさん」
「な、なんじゃね」
「あの。太腿とお尻もお願いします」
「い、いいのかね」
「いいの。お願い」
京子は、ねだるように言った。
老人は京子の太腿にオイルを垂らし、太腿にオイルをぬった。
柔らかい太腿が蒟蒻のように揺れて、老人の頭は興奮と酩酊で混乱していた。
ぬる度に、太腿の上のセクシーなビキニにつつまれた尻が蒟蒻のように揺れる。小さなビキニからは尻が半分、露出している。
老人がどのあたりまで塗るか迷っていると、京子が、もどかしそうに言った。
「おじいさん。中途半端じゃなく、くまなく塗って」
老人はドキンとした。隈なく、ということは、肌の出ている所は全部という事だ。老人はもう、混乱した頭で無我夢中で京子の太腿にオイルを塗った。オイルを塗る度に柔らかい太腿が揺れた。老人は、激しく興奮した。
太腿を塗りおえて老人は、半分近く露出している尻にも無我夢中でオイルを塗った。
柔らかく弾力のある大きな尻が揺れて、老人の興奮は絶頂に達した。
「ああ。柔らかい。温かい。若いってことは素晴らしく羨ましいことじゃな」
老人はとうとう本心を告白した。
京子は目をつぶったまま微笑した。
京子は何か、若さの優越感を感じて嬉しくなった。
京子は気持ちよさそうな顔つきで目をつぶっている。
老人はオイルを塗りおえて京子の体から手を離した。
「ありがとう。おじいさん」
京子はごく淡白な口調で言った。
「い、いや。わしの方こそ、礼を言わにゃならん。ありがとう。お嬢さん」
京子は、しばしうつむいたまま、背中を妬いた。
「おじいさん。今度は仰向けになるわ」
そう言って京子はクルリと体を反転させ仰向けになった。目はつぶったままである。京子の体はわずかなビキニで包まれただけで、裸同然である。女の部分はビキニがピッタリ貼り付いて、ビキニの弾力のため、そこは形よく整い、悩ましいふくらみが出来ている。その布一枚下には女の、見せてはならないものがある。それを思うと老人は狂おしい苦悩に悩まされた。胸はあたかも柔らかい果実を包んでいるかのようであった。京子は気持ちよさそうに太陽に身を任せている。
空には雲一つなく、青空の中で激しく照りつける真夏の太陽は京子の体をみるみる焼いた。
老人は京子が目をつぶっているのをいい事に、京子の体を網膜にしっかり焼きつけるように見つめた。
しばしして京子がムクッと起き上がった。
「あー。気持ちよかった」
京子は眠りから覚めたようにムクッと起き上がって大きく伸びをした。
「おじいさん。来週の日曜もまたここへ来る?」
「ああ。来るよ」
「私も来るわ。じゃあ、来週、また会いましょうね」
そう言って京子は老人と別れた。

  ☆  ☆  ☆

翌週の日曜になった。
老人がビーチに座っていると約束通りビキニ姿の京子が手を振りながら満面の笑顔でやってきた。
「お嬢さん。わしはモーターボートの免許があるんじゃが、よかったら、モーターボートに乗らんかね」
「わー。楽しそう。ぜひ、乗りたいわ」
老人はタクシーをひろって近くのマリーナに行った。そしてモーターボートを借りた。真夏の海をきって走るモーターボートは爽快だった。沖に出て、海の真っ只中で、一休みと言って、老人は止めた。
「わあー。きれいな海」
京子はわざと老人を挑発するように、小さなビキニに包まれた大きな尻をことさら突き出した。老人に、襲いかかられて、「あっ。いやっ」と、軽い抵抗をして、老人に襲われる事を期待していた。だが、どうも老人が襲いかかる気配は無い。突然、京子は両手を掴まれて、背中に捻り上げられた。
「あん。いやん」
京子は、老人が、京子が抵抗しないように縛るのだと思った。老人には女を襲う腕力がない。あるいは老人にはSM趣味もあるのかもしれない、と思った。縛られて裸に近いビキニ姿を見られ、触られる事を想像して、京子は激しく興奮した。可哀想な自分にナルシズムに浸れると思った。演技して涙を少し流そうかと思った。京子は、ああん、と軽い抵抗をして、後ろ手に手首を縛られた。老人は京子の体をひっくり返して自分に向けた。老人は京子の豊満な体を寂しそうに眺めている。触ろうともしない。京子は疑問に思って老人に聞いた。
「おじいさん。どうしたの」
だが老人は黙っている。
「私を触りたいために縛ったんでしょう?」
老人はそう言われても黙っている。
「ちがう」
老人ははじめて口を開いた。
「わしがあんたを縛ったのは、あんたを殺すためじゃ」
そう言って老人は縄を出した。
「わしはこれであんたを、絞め殺すんじゃ」
そう言って老人は京子の首に縄をまいた。
「なぜ。どうして私を殺すの」
京子は少しの恐れもない口調で言った。
「私を驚かそうというんでしょ」
「そう思うじゃろ。しかしわしは本気なんじゃ」
老人の口調には真実味があった。
「どうして私を殺すの。その理由を教えて」
「当然のことだが、わしはあんたより先に死ぬ。あんたは、わしが死んだ後も何十年も生きつづける。わしは人生で何の楽しい事も無かった。わしには、わしが生きたと自慢できる物が何も無い。何も無い人生を送ったことが、わしは口惜しい。わしは若者に嫉妬しているんじゃ。それなりに満足した人生を送った者ならば、安らかに死ねるだろう。しかし、それがわしにはない。わしの死んだ後も、花が咲き、日が昇り、人々が楽しく生き、地球が存在しつづける事が、とてつもなく口惜しいんじゃ。これでわかったじゃろ。だから、あんたを殺すんじゃ。そうすれば、わしは人生で少しは幸せになれる。あんたを殺した後、わしも死ぬ」
老人は厳かに語った。京子はじっと老人の顔を見つめた。そして、少し思案した後、意を決したように口を開いた。
「わかったわ。私を殺して」
そう言って京子は首を突き出した。
「わしは本当にあんたを殺すよ」
「いいわ」
「どうしてじゃね。命が、青春が惜しくはないのかね?」
京子は、ふふふ、と笑った。
「『夏に人は最も死に魅せられる』確か、ボードレールの言葉だったと思うけど、そんなのがあったわ。確かに夏を最も充実させるのは、死ぬことね。私も、老いていくより、今、若い時、今年の夏に死ぬのも、いいわ。どうせ物価は上がり続けるだろうし、官僚は天下り先を作り続けるだけだろうし、日本経済はよくならないし、年金は保障されないし、北朝鮮はノドンより性能のいい長距離弾道ミサイルを開発して、それをアメリカに打ち込むだろうし、ロシアとウクライナは戦争するだろうし、防衛費は上がり続けるだけだろうし、最低賃金は上がらないし、そんな人生を送るより、おじいさんに今、殺される方がロマンチックだわ」
「わしは本当に殺すよ」
老人は目を光らせて言った。
「いいわ。それより待って。携帯を持ってきて。私の意志で死ぬんだから、今の私の言葉を録音しておいて。もし万一、おじいさんが疑われて警察に捕まった時、罪が軽くなるでしょ」
その時だった。
老人は堰を切ったように涙をポロポロ流し出した。
「ごめんよ。すまんね。こんな優しい子をどうして殺せよう」
そう言いながら老人は京子を後ろ向きにして、手首の縄を解いた。老人はモーターボートを運転してマリーナに戻った。
「さあ。お嬢さん。わしを警察に突き出してくれ」
老人は後ろめたそうな顔つきで京子を見た。
「ふふふ。おじいさん。とてもスリリングで楽しかったわ。今年は私にとって最高の夏だわ」
老人の目には涙が浮かんでいた。
「わしにとっても最高の夏じゃった。気持ちの悪い思いをさせてしまって、すまなかったね。しかしわしは、この夏、精神的に確かにあんたと精神的に心中した。生きていて、本当に良かった。素晴らしい思い出をありがとう」
老人はさびしく踵を返そうとした。
「待って」
京子が呼び止めた。
「なんじゃね」
「また会って下さいますか」
老人はじっと京子のつぶらな瞳を見つめた。
「ありがとう。生きてて、わしゃ、本当によかったよ」
そう言って老人は京子の足元にひれ伏して泣いた。

  ☆  ☆  ☆

翌週の日曜日。
老人は、少しおどおどしながら、いつものようにビーチに座っていた。
その時。
「おじいさーん」
と満面の笑顔で京子が、ビキニの胸を揺らしながら老人の所に走ってきた。



平成21年4月24日(金)擱筆

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