蜘蛛の糸(浅野浩二の小説)
ある日の事でございます。御釈迦様は極楽の蓮池のふちを、独りでぶらぶら御歩きになっていらっしゃいました。池の中に咲いている蓮の花は、みんな玉のようにまっ白で、そのまん中にある金色の蕊からは、何とも云えない好よい匂が、絶間なくあたりへ溢れて居ります。
やがて御釈迦様はその池のふちに御佇みになって、水の面を蔽っている蓮の葉の間から、ふと下の容子ようすを御覧になりました。この極楽の蓮池の下は、丁度地獄の底に当って居りますから、水晶のような水を透き徹して、三途の河や針の山の景色が、はっきりと見えるのでございます。
するとその地獄の底に、カンダタと云う男が一人、ほかの罪人といっしょに蠢いている姿が、御眼に止まりました。このカンダタと云う男は、人を殺したり家に火をつけたり、いろいろ悪事を働いた大泥坊でございますが、それでもたった一つ、善い事を致した覚えがございます。と申しますのは、ある時この男が深い林の中を通りますと、小さな蜘蛛が一匹、路ばたを這って行くのが見えました。そこでカンダタは早速足を挙げて、踏み殺そうと致しましたが、「いや、いや、これも小さいながら、命のあるものに違いない。その命を無暗にとると云う事は、いくら何でも可哀そうだ」と、こう急に思い返して、とうとうその蜘蛛を殺さずに助けてやったからでございます。
御釈迦様は地獄の容子を御覧になりながら、このカンダタには蜘蛛を助けた事があるのを御思い出しになりました。そうしてそれだけの善い事をした報いには、出来るなら、この男を地獄から救い出してやろうと御考えになりました。幸い、側を見ますと、翡翠のような色をした蓮の葉の上に、極楽の蜘蛛が一匹、美しい銀色の糸をかけて居ります。御釈迦様はその蜘蛛の糸をそっと御手に御取りになって、玉のような白蓮の間から、遥か下にある地獄の底へ、まっすぐにそれを御下おろしなさいました。
二
こちらは地獄の底の血の池で、ほかの罪人と一しょに、浮いたり沈んだりしていたカンダタでございます。何しろどちらを見ても、まっ暗で、たまにそのくら暗からぼんやり浮き上っているものがあると思いますと、それは恐しい針の山の針が光るのでございますから、その心細さと云ったらございません。その上あたりは墓の中のようにしんと静まり返って、たまに聞えるものと云っては、ただ罪人がつく微かな嘆息ばかりでございます。これはここへ落ちて来るほどの人間は、もうさまざまな地獄の責苦に疲れはてて、泣声を出す力さえなくなっているのでございましょう。ですからさすが大泥坊のカンダタも、やはり血の池の血に咽びながら、まるで死にかかった蛙のように、ただもがいてばかり居りました。
ところがでございます。何気なにげなくカンダタが頭を挙げて、血の池の空を眺めますと、そのひっそりとした暗の中を、遠い天上から、銀色の蜘蛛くもの糸が、一すじ細く光りながら、するすると自分の上へ垂れて参るのではございませんか。カンダタはこれを見ると、思わず手を拍うって喜びました。この糸に縋りついて、どこまでものぼって行けば、きっと地獄からぬけ出せるのに相違ございません。いや、うまく行くと、極楽へはいる事さえも出来ましょう。そうすれば、もう針の山へ追い上げられる事もなくなれば、血の池に沈められる事もある筈はございません。
こう思いましたからカンダタは、早速その蜘蛛の糸を両手でしっかりとつかみながら、一生懸命に上へ上へとたぐりのぼり始めました。元より大泥坊の事でございますから、こう云う事には昔から、慣れ切っているのでございます。
しかし地獄と極楽との間は、何万里となくございますから、いくら焦あせって見た所で、容易に上へは出られません。ややしばらくのぼる中うちに、とうとうカンダタもくたびれて、まず一休み休むつもりで、糸の中途にぶら下りながら、遥かに目の下を見下しました。
すると、一生懸命にのぼった甲斐があって、さっきまで自分がいた血の池は、今ではもう暗の底にいつの間にかかくれて居ります。それからあのぼんやり光っている恐しい針の山も、足の下になってしまいました。この分でのぼって行けば、地獄からぬけ出すのも、存外わけがないかも知れません。カンダタは両手を蜘蛛の糸にからみながら、「しめた。しめた」と笑いました。ところがふと気がつきますと、蜘蛛の糸の下の方には、多数の罪人たちが、自分ののぼった後をつけて、まるで蟻の行列のように、やはり上へ上へ一心によじのぼって来るではございませんか。カンダタはこれを見ると、驚いたのと恐しいのとで、しばらくはただ、大きな口を開あいたまま、眼ばかり動かして居りました。自分一人でさえ断きれそうな、この細い蜘蛛の糸が、どうしてあれだけの人数の重みに堪える事が出来ましょう。もし万一途中で断きれたと致しましたら、折角ここへまでのぼって来たこの肝腎な自分までも、元の地獄へ逆落しに落ちてしまわなければなりません。そんな事があったら、大変でございます。が、そう云う中にも、罪人たちは、まっ暗な血の池の底から、うようよと這い上って、細く光っている蜘蛛の糸を、一列になりながら、せっせとのぼって参ります。今の中にどうかしなければ、糸はまん中から二つに断れて、落ちてしまうのに違いありません。
三(ここから創作)
そこで、カンダタは、よじ登ってくる亡者たちに向かって、大声で言いました。
「おーい。お前らの気持ちは、よくわかる。お前たちも、この糸にすがって、地獄から脱出したいというのだな」
カンダタは、よじ登ってくる亡者たちに大声で言いました。
「おお。そうじゃ」
よじ登ってくる亡者たちは、大声でカンダタに言いました。
「お前たち。登るのをやめて下に降りろ」
カンダタは大声で、亡者たちに叫びました。
「ずるいぞ。カンダタ。お前は、自分だけが、助かりたいというのだな」
亡者たちは、一斉にブーイングしました。
「違う。違う」
カンダタは冷静な表情で、大きく手を振りました。
「どう違うんじゃ。説明しろ」
亡者たちは、怒鳴るようにカンダタに言いました。
「いいか。緊急事態の時ほど冷静になるんだ。オレの言うことをよく聞け。いいか。この蜘蛛の糸は、見た目は極めて細く脆弱に見える。しかしだ。オレは体重60kgだが、この糸は切れない。今、見たところ、20人ほど、登っているな。それでも、この糸は切れない。この糸が何kgまでの重さにまで耐えられるのかは、わからない。しかし一人の体重を60kgと、おおまかに計算して、60×20=1200kgには、優に耐えられるのだ。だからだな。まず、オレが登る。お前らは、一度、全員、地獄へ戻れ。そうして、オレが登り終わったら、一人づつ、いいか、一人づつだそ。この糸に登れ。そうして、一人、登り終えたら、次の者が登れ。そうすれば、全員、地獄から出られるのだ」
カンダタは、そう説明しました。
「おーう。わかった。お前が言うことが道理じゃ」
蜘蛛の糸にしがみついていた亡者たちは、カンダタの忠告に従って、スルスルと地獄の血の池に戻って行きました。地獄の亡者たちというものは、案外、物分りがいいものなのです。大体、地獄に落ちた罪人たちは、終わりのない未来永劫つづく地獄の責め苦を受けているのですから、「ああ。世にいた時に、悪い事をしなければよかった」と後悔し、反省していますから、みな、心を入れ替えて善人になっているからです。
カンダタは、蜘蛛の糸にしがみついていた亡者たち全員が、血の池に戻るのを確かめると、蜘蛛の糸が切れないように、ゆっくりと、地獄の暗闇の中を登り始めました。かなりの時間が経ちましたが、長い地獄での責め苦で、時間の感覚というものが、わからなくなっていました。しかし、とうとうカンダタは頭上に僅かな光明を見出しました。
「ああ。あれがきっと極楽の光だろう。助かった」
疲れが限界にきていたカンダタですが、助かるという、強い希望がカンダタに、大きな力をもたらしました。カンダタは、
「お釈迦様。本当にありがとうございます」
と、心の内に感謝しながら、一心に登って行きました。光はだんだん大きくなっていきます。あたかも、それは、長時間、深海に潜っていたダイバーが、だんだん水中を浮上していって、水面に差し込んでくる陽光を見た時の喜びに似ていました。実際、登るにつれて、光が差し込んでくる所はポッカリと円形となっていて、そこには水が張っており、光は、その水を通して、地獄の暗闇の中に差し込んでいるのです。あれは、きっと極楽の池に違いないとカンダタは思いました。カンダタは、ゆっくりと、しかし、しっかりと蜘蛛の糸を掴んで、登って行きました。
「やった」
とうとうカンダタは、最後の力をふりしぼり、水上に顔を出しました。カンダタは、急いで近くに浮いている大きな蓮の葉に乗りました。その時のカンダタの喜びといったら、喩えようがありません。カンダタは、辺りを見回しました。そこは、美しい大きな池で、池の中には大きな蓮の葉が、漂っており、岸辺には、美しい花々が咲き乱れています。ここは極楽の蓮の池に相違ありません。
「やった。オレはとうとう極楽に辿り着いたぞ。もう、地獄の責めに苛まれることない。やった。やったぞ」
カンダタは、大きな声で、「万歳―」と叫んでガッツポーズをしました。しかし、すぐに喜ぶより、他にしなければならないことに、カンダタの意識が移りました。
カンダタは、急いで蓮の上から、池の中を覗き込みました。池の底には、カンダタの忠告を聞いた、地獄の亡者たちが、血の池の中で物欲しそうに、上を見上げています。
「おーい。ここは極楽じゃ。とうとうオレは極楽に着いたぞ。今度は、お前たちの番だ。いいか。一人づつ、ゆっくりと、焦らずに登ってこい」
カンダタは、地獄の亡者たちに向かって、大声で、そう言いました。
「おお。そうか。わかった」
亡者たちは、大声て、カンダタに向かって、そう言いました。
地獄の亡者たちは顔を見合わせました。亡者たちは、何千人、何万人といます。
「おい。みんな。この蜘蛛の糸は、20人までは、登れる強度がある。しかしだ。カンダタが言ったように、慎重を期して、一人づつ登ろう。その方が安全だ。そうは思わんか?」
亡者の一人(石川五右衛門ですが)が言いました。
「おう。そうだ。そうだ」
地獄の亡者たちは、みな、賛同しました。
「よし。異論はないな。では、一人ずつ登ろう。あわてる乞食と亡者は貰いが少ない、という諺もあることだしな。ところで、誰から登っていくか、その順番は、どうやって決めたらいいだろうか?」
石川五右衛門がみなに聞きました。
「そうだな。地獄に入りたてで、まだ地獄の責め苦が少なく、体力のある者から登ったらどうだ」
サダム・フセインが、そう言って金正日に目を向けました。
しかし、金正日は手を振りました。
「いや。私は後でいい。私は、今、つくづく自分のしてきた事を反省しているんだ」
地獄に入りたての罪人は、他の亡者よりも特に罪悪感に深く苛まれて、精神的に打ち萎れているのです。
「地獄の責め苦が、特に酷い者から登ったらどうだ」
金正日は、そう言ってアドルフ・ヒトラーに目を向けました。
しかし、ヒトラーも、やはり手を振りました。
「どうしてだ?」
金正日がヒトラーに聞くと、ヒトラーは、弱々しい顔を上げました。
「私は、ユダヤ人を500万人も殺した。何の罪も無いユダヤ人たちを。ユダヤ人であるということだけで。しかも、死体の処理がしやすいように、裸にして毒ガスで殺したのだ。彼らの恐怖と苦しみは、想像を絶する、まさにこの世の生き地獄だったろう。間違いなく私が歴史上で一番の悪人、悪魔だろう。私のような者が、極楽へ行けるとは、とても考えられない。もしかすると、私が登っている途中に、私の罪科の大きさゆえに、糸が切れてしまうかもしれない。そうなっては、みなに申し訳ない。私は一番最後に登らせていただきたい」
ヒトラーは、弱々しい口調で言いました。そしてヒトラーは、近くにいたマリーアントワネットに目を向けました。
「やはり、レディーファーストということで、女の方から登られるのがいいのでは、ないでしょうか?」
ヒトラーは、マリーアントワネットに向かって言いました。
しかし、マリーアントワネットも、やはり拒否の手を振りました。
「ヒトラーさん。あなただって、ユダヤ人を殺したのは、ユダヤ人が、あなたの目的とする第三帝国設立の邪魔になるからという政治的な理由からでしょう。実際、ユダヤ人は、金儲けが上手く、高利の金貸しをしていた悪いユダヤ人たちもいます。シェークスピアの「ベニスの商人」にもあるように、ユダヤ人には、悪い人が、かなり多いと私は思います。そう気落ちなさらないで」
マリーアントワネットは、そう言ってヒトラーの頭を優しく撫でて慰めました。
「罪悪感はみな同じです。罪の大きさを、比べあっても埒があかないと思います。ここは、やはり、古参の方から登られるのがいいと私は思います。二千年も地獄の責め苦にあって、心身ともに参っているのですから」
マリーアントワネットは、そう言って、則天武后や呂太后や、古代ローマの暴帝カリギュラやネロに目を向けました。
しかし、彼ら彼女らも、やはり拒否の手を振りました。
「いえ。私たちは、二千年も地獄の責めにあっていて、とても蜘蛛の糸に、よじ登れる体力があるとは思えません。仮に、登れたとしても、大変、時間をとってしまうでしょう。それでは、みなさんに申し訳ありません」
ネロが、そのように拒否の理由を言いました。
しばしの沈黙の後、スターリンが口を開きました。
「このようにしていては、いつまで経っても埒があきません。ここは、公平にジャンケンで順序を決めてはどうでしょうか?」
煮え切らない亡者たちを鼓舞するように、スターリンが強い語調で、言いました。
「そうですね」
「賛成!!」
地獄の亡者たちは、こぞって、賛同の意をあらわしました。
「では、みなさん。大雑把に、10組のグループを作って下さい。そのグループの代表者が、ジャンケンをして、大きな順番を決めて下さい。そして各グループで、ジャンケンをして、グループの中での順番を決めて下さい」
スターリンが言いました。
亡者たちは、身近にいる者たちが集まって、大雑把に10のグループが出来ました。
「では、各グループの代表者を一人決めて、出て来て下さい」
スターリンに言われて各グループの代表者が、出てきました。
そのメンバーは。則天武后。西太后。スターリン。サダム・フセイン。金正日。カリギュラ。ネロ。マリーアントワネット。ムッソリーニ。ヒトラー。の10人です。
10人は、グーパージャンをしていきました。その結果、各グループの順番が決まりました。その順番は。ヒトラー。マリーアントワネット。ムッソリーニ。金正日。則天武后。ネロ。西太后。サダム・フセイン。スターリン。カリギュラ。の順になりました。
「では、ヒトラーさんのグループの方達が最初です。一人づつ、蜘蛛の糸を登って下さい」
まとめ役のスターリンが言いました。
「では。みなさま。私たちのグループが、お先に行かせて頂きます」
ヒトラーは、低い物腰で、申し訳なさそうに言いました。
ヒトラーのグループは、宣伝大臣ゲッペルス、ゲシュタポ長官ヒムラー。生体実験をした悪魔の医者ヨーゼフ・メンゲレ。など、ニュールンベルグ裁判で、裁かれたナチスの指揮官、兵士たちが主でした。
「では、お先に登らせて頂きます」
ヒトラーのグループで、最初の順番になった宣伝大臣ゲッペルスが、みなに一礼すると、蜘蛛の糸を登り始めました。ゲッペルスは存外、スルスルと蜘蛛の糸を登り出しました。亡者たちは固唾を呑んで、ゲッペルスを見守りました。
「頑張れー」
地獄の亡者たちは、みな、心が一つに通じ合っているかのように、声を大に声援しました。
ゲッペルスの姿は、地獄の闇の中で、登るのにつれて、だんだん小さくなっていきました。ついに、その姿は、小さな点となり、さらに、登るのにつれて、見えなくなってしまいました。それから、ややあって。
「おーい。オレだ。ゲッペルスだ。やった。やったぞ。ついに極楽についたぞ。さあ。次の者。落ち着いて登ってこい」
天上から、ゲッペルスの喜びの声が聞こえてきました。
亡者たちから、わー、と祝福と喜びの歓声と拍手が起こりました。
「では、次は私が行かせて頂きます」
そう言って、二番目になったゲシュタポ長官ヒムラーが、蜘蛛の糸に、登り始めました。ヒムラーも、ゲッペルス同様、地獄の暗闇の中をスルスルと登っていきました。
「頑張れー」
亡者たちは、みな、大きな声でヒムラーを声援しました。
「おーい。ヒムラー。オレだ。ゲッペルスだ。焦るなよー。ゆっくり登れ」
極楽から、地獄を覗いているのでしょう。ゲッペルスの声援が聞こえてきました。
ヒムラーの姿も、だんだん、小さな点になっていきました。しはしして。
「おーい。みんなー。オレだー。ヒムラーだ。やったぞ。極楽に着いたぞ」
と、ヒムラーの声が、天上から聞こえてきました。
みなは、わー、と手をたたいて、地獄から脱出したヒムラーを、我が事のように祝福しました。そうして、ナチスの指揮官、兵士たちが、一人ずつ、登っていきました。そして、亡者は、自分が無事に極楽に着くと、地獄にいる亡者たちに、その喜びの報告をしました。
最後にヒトラーの番になりした。ヒトラーは、第一グループ内で、ジャンケンをして最後の順番になったのではなく、自分から申し出て、最後になったのです。
「みなさん。私の犯した罪は、あまりにも、大き過ぎます。もしかすると、私が蜘蛛の糸を登っている時に、糸が切れてしまうかもしれません。そうしたら、助かるはずのみなさま、まで、助からなくなってしまいます。私はそれが怖くて仕方ありません。ですから、私は一番、最後にして下さい」
ヒトラーは、そう強く訴えました。
「いいえ。ヒトラーさん。どうか登って下さい。私たちは、みな、自分の権力欲のため、血の粛清を行ってきた、大悪人ばかりです。罪の重さを比較して、罪の重さの度合いに順序があると考えるのは、意味のないことだと思います。あなた一人では、ホロコーストというユダヤ人の大量虐殺は出来なかったはずです。それに、あなたは、第一次世界大戦の敗戦で、連合国から、一方的に、ベルサイユ条約などという、酷すぎる条約を押しつけられたのを、軍事産業によって、多くのドイツ人の失業者を救ったではありませんか。あなたも、産業革命から始まった、帝国主義、植民地の奪い合い、共産主義国家の出現、という歴史の流れの中で、生まれるべくして生まれた人間とも十分に見れますわ。ですから、どうか、登って下さい」
そうマリーアントワネットが、ヒトラーを慰めました。
みなも、
「おう。そうだ。そうだ」
と賛同の雄叫びをあげた。
ヒトラーは、マリーアントワネットの慰めの言葉に号泣しました。
「ありがとう。みなさま。本当にありがとう。では、登らせて頂きます」
ヒトラーは、みなに深く一礼すると、蜘蛛の糸を掴んで、登り始めました。ヒトラーの姿が、地獄の闇の虚空の中で、上へ上へと上がっていきます。
地獄の亡者たちは、みな、目をつぶって手を組んだり、何度も、繰り返し、体を前に倒して、頭を地につけたりしています。みな、蜘蛛の糸が切れないことを一心に祈っているのです。かなりの時間が経ちましたが、幸い、いつまで経っても、ヒトラーが落ちてくる気配はありません。目をつぶって祈っていた者たちも、目を開けて、糸の先を見ました。もう、ヒトラーの姿は見えないほどになっていました。張りつめていた心が和らいだのでしょう。亡者たちは、祈りの手を解きました。それから、また、しばしの時間が経ちました。
「おーい。みなさん。私だ。ヒトラーだ。無事に極楽に着きましたぞ」
天空からヒトラーの声が聞こえてきました。
みなは、わー、と歓声をあげました。
「よかった。本当によかった」
みなは、涙を流して、拍手してヒトラーの無事、極楽到達の成功を喜び合いました。
次にはマリーアントワネットのグループが、蜘蛛の糸に登り始めました。
マリーアントワネットのグループは、ルイ16世をはじめ、フランス絶対王政のもと、武力で革命派を押さえつけていた体制派の王侯貴族の者たちが、その多くを占めていました。
第二グループのマリーアントワネットのグループも、みな、無事に蜘蛛の糸を登り切りました。ひとグループの全員が、登りきるのには、かなりの時間がかかりますが、亡者たちは、長い地獄の責め苦から、時間の感覚というものが無くなっています。そして蜘蛛の糸を登る者の、安全と無事を見守る緊張感と、一人の亡者が極楽に登りついた時の喜びとで、時間がかかるのは、全く、苦ではありませんでした。とうとう、最後であるカリギュラのグループの亡者達が、一人づつ蜘蛛の糸を伝って登っていっていきました。そして、一人づつ極楽に辿り着きました。一番、最後は、カリギュラでした。
なにしろ、カリギュラは、二千年も、地獄の責め苦を受けていますから、体力が著しく低下していて、なかなか辿り着けません。ハアハアと何度も息を切らして休み休み、登っていきましたが、ようやく極楽近くまで辿り着きました。カリギュラは必死に蜘蛛の糸に、つかまっています。
「カリギュラ。あと少しだ。頑張れ」
極楽に辿り着いた、地獄の亡者たち全員が、声を大に声援しました。カリギュラは、体に残っている最後の力を振り絞って、蜘蛛の糸をよじ登りました。あと、少しという所でムッソリーニとスターリンが、手を差し伸べました。カリギュラも、精一杯、手を伸ばしました。その手をムッソリーニとスターリンが、ガッシリとつかみ、カリギュラを引き上げました。とうとうカリギュラも、極楽に辿り着きました。これで、地獄の亡者たちは、全員、地獄から極楽へと、辿り着きました。みなは、一斉に、
「万歳!!」
と、叫びました。
「カンダタ君。君の冷静な判断と忠告のおかげで、我々は全員、地獄から極楽に辿り着くことが出来た。君には感謝しても、し足りない。本当にありがとう」
ヒトラーが、カンダタに深く頭を下げました。
「いやいや。私こそ、最初に登ってしまって、申し訳ない」
カンダタは手を振って、そう言いました。
「いや。君が先頭で、相当、高く登っていたのだから、君が最初に登るのは、当然じゃないか」
ヒトラーが、そう言いましたが、カンダタは、また手を振りました。
「いやいや。なにしろ、謎の糸だ。どんな理由で切れてしまうか、わからない。本当なら、私も、いったん地獄に降りてから、誰から登るべきか、公平に決めるのが道理じゃないのか、と思っていたんだ。私にもエゴがあったんだ。そう、無下に感謝されては、心苦しい」
カンダタは、謙虚そうに言いました。
「しかし、蜘蛛の糸は、君の頭上に降りて来たんだ。お釈迦様は、もしかすると君だけを助けようと思ったのかもしれない。君は、我々と違って、大量殺戮などしていない。君は生前に何か、良いことをしたのではないか?」
ヒトラーが聞きました。
カンダタは、しばし思案気な顔をしていましたが、首を振りました。
「いや。どう考えても、そんなこと、思い当たらないな」
カンダタは、そう言いました。
そうしてカンダタはすぐに語を継ぎました。
「そんなことより、みんな、全員、無事に地獄から脱出して、極楽へ辿り着けたんだ。我々の生還を祝福して、みなで、大いに祝おうじゃないか」
カンダタは、みなに向かって、大きな声で、そう提案しました。
「おう。そうだ。そうだ」
「賛成!!」
元、地獄の亡者たちは、みな、賛同しました。
「でも、酒とか料理とか、は、どうするんだ」
元、亡者の一人が聞きました。カンダタは、
「ちょっと、これを飲んでみろ」
と、言って、椀で、極楽の池の水を掬いました。そして、それを、その亡者に渡しました。
元、亡者は、首を傾げながらも椀の中の液体をひと飲みしました。
「美味い。これは、ボルドーニュワインでは、ないか」
元、亡者は、ゴクゴクと、一気にワインを飲み干しました。
「カンダタ。これは、一体、どういうことだ?」
元、亡者がカンダタに聞きました。
「君たちが、登ってくる間に、喉が乾いてしまってな。池の水を掬って飲もうとしたんだ。そう思った途端、手の中に、パッと手頃な椀が現れたんだ。そして。池の水を掬ったんだ。そして。これが、オレの好きな紹興酒だったら、どんなに、いいだろうと思ったら、ブーンと紹興酒の匂いがしてきたんだ。飲んでみると、極上の紹興酒だ。極楽では、池の水をすくって心に念じれば、それは、すぐに自分の望む極上の酒になり、石ころを手にとって、念じれば、それは、すぐに、自分が食べたいと望む、極上の料理に変わるのだ」
そうカンダタは説明しました。
「なるほど。さすが、極楽とは素晴らしい所なんだな」
元、亡者が感心したように言いました。
「それでは、みんな。自分の飲みたい酒を念じて、池の水を掬ってくれ」
カンダタが、大きな声で、みなに言いました。
「おーう」
みなは、各自、池の水を、掬いました。それらは、みな、各自が望んでいる、酒に変わりました。
「それでは、地獄からの脱出と、全員の極楽への無事到着を祝って・・・カンパーイ」
みなは、一斉に、カンダタの音頭に合わせて、乾杯しました。
元、亡者たちは、各自のグラスや茶碗を、周りの元亡者たちのグラスや茶碗にカチンと触れ合わせました。
みなは、一斉にゴクゴクと一気に飲み干しました。
「ああー。美味い」
元亡者たちは、続けて、池の水を掬って、もう一杯、飲みました。なにしろ、亡者たちは、何百年、何千年と、毎日、血の池地獄、針の山地獄、焦熱地獄、極寒地獄など、人間が、とても耐えられない責めを受け続けてきていますので、心身ともに参りきっています。もちろん地獄では、食事などありません。この一杯の酒が無上に美味いのは言うまでもありません。二千年以上、地獄の責めを受けてきた、カリギュラやネロ、則天武后、などは、瀕死の状態でしたが、久しぶりの酒を飲み、極楽の心地よい空気にさらされている内に、だんだん活力を取り戻していきました。
次に、みなが、それぞれ、念ずることによって、各自が望む、最高の御馳走がパッと目の前に現れました。西洋人の元亡者の目の前には、最高の西洋料理、中国人の元亡者の目の前には、最高の中華料理が現れました。
地獄からの生還を祝って、元亡者たちの、飲めや歌えやの祝宴が始まりました。周囲には、極楽の美しい花々が咲き乱れ、名も知れぬ美しい鳥が空を舞っています。
「ヒトラーさん。この中国料理は美味しいですよ」
西太后がヒトラーに、四川料理を勧めました。
「どれどれ」
と、ヒトラーは、中国料理を、一口、食べました。
「美味い」
思わず、ヒトラーは、歓喜の声を上げました。
「西太后さん。このザワークラウトというドイツ料理も、美味いですよ」
そう言ってヒトラーは、西太后に、ドイツ料理のザワークラウトを勧めました。
「美味しいわ」
西太后もドイツ料理を一口食べて、満面の笑顔で言いました。
こうして地獄から極楽へ生還した亡者たちの祝宴が賑やかに行われました。
賑やかな声に何事かと驚いたのでしょう。極楽の人々がゾロゾロと集まって来ました。その中に、ホロコーストで殺されたユダヤ人の一群れがいました。ヒトラーの顔が急に青ざめました。ヒトラーは、大急ぎで、ユダヤ人たちのもとに行きました。そして、彼らの前で土下座して、頭を地に擦りつけました。
「ユダヤ人のみなさま。申し訳ありませんでした。私は、私の我儘から、皆様を酷い方法で殺してしまいました。これは、どんなに謝っても許されることではありません。私を八つ裂きにするなり、火あぶりにするなり、なんなりとして下さい」
ヒトラーは大声でそう叫んで、地面を叩いて号泣しました。顔を上げるのが怖かったのでしょう。ヒトラーは、いつまでも土下座して顔を地面に擦りつけて、号泣しつづけました。そんなヒトラーの肩がポンと何者かによって、叩かれました。ヒトラーは、恐る恐る顔を上げてみました。可愛い少女が、微笑んでいます。
「君は誰ですか?」
ヒトラーは恐る恐る、少女に聞きました。
「私は、アンネ・フランクと言います。ユダヤ人です」
少女は悪意のない笑顔で淡々と答えました。
「ああ。君も強制収容所で、ガス室で殺されたんだね。こんな幼い、可愛い子を、殺すなんて、私は、まともな人間じゃない。狂気の悪魔だ」
ヒトラーは狂ったように、自分の頭を地に叩きつけながら叫びました。
「いえ。ヒトラーさん。聞いて下さい。私は、確かに強制収容所で死にました。しかし、ガス室で殺されたのではありません」
少女は穏やかな口調で言いました。
「では、どうして死んだのかね?」
ヒトラーは疑問に満ちた目で少女に聞きました。
「私も強制収容所で死にました。1945年の三月上旬です。でもガス室で死んだのではなく、チフスに罹って死んだのです」
少女は、そう淡々と話しました。
「ああ。そうだったんですか。強制収容所は不衛生の上、僅かな食事で、重労働のため、体力が衰弱して死んでいったユダヤ人も、非常に多い。それは意図的な殺人と変わりありません。何と謝っていいか」
ヒトラーは、また青ざめた顔で弱々しく言いました。
「いいえ。ヒトラーさん。そう自分を責めずに聞いて下さい」
そう言ってアンネ・フランクは話し始めました。
「私の父は銀行員で、私は、1929年に、ドイツのフランクフルト・アム・マンで生まれました。しかし、1933年から、ナチスのユダヤ人迫害がひどくなり、ユダヤ人は、国外に亡命するようになりました。私の一家も、その年にオランダのアムステルダムに亡命しました。1940年にドイツ軍がオランダを占領して、オランダでもユダヤ人に対する迫害は、一層、激しくなりました。1942年に、私たち一家と、友人の家族を合わせた8人は、アパートの中の、隠れ家で、ひっそりと過ごすようになりました。私は、将来は、小説家になりたいと思っていましたので、毎日、日記を書き続けることにしました。それだけが私の唯一の楽しみでした。しかし残念なことに、1944年の8月4日に、隠れ家がゲシュタポに見つかってしまいました。私たち家族は、全員、強制収容所に連れていかれました。そして、その翌年の1945年の3月に、私は収容所でチフスで15歳で死にました」
少女は淡々とした口調で話しました。
「そうだったんですか。こんな幼い少女を。夢も希望もあったでしょうに。私は、とんでもない事をしてしまいました。なんと謝ったらいいか。いいや、これは謝って、済むことではありません。私は人間のクズです。いや、人間ではなく悪魔そのものです」
ヒトラーは、そう言って、ポロポロと涙を流しながら、憔悴した顔を少女に向けました。
「いえ。ヒトラーさん。そう自分を責めずに、落ち着いて聞いて下さい。確かに隠れ家での生活は、不自由で、辛くはありました。しかし私の父の会社の社員さんたちは、純血のドイツ人でしたが、私たちを、最後までかくまってくれました。私も出来ることなら、もっと長生きして、恋愛して、うんと遊び、そして、小説家になって、うんと小説を書きたいという夢があまりした。それが出来なかったというのは、確かに残念です。でも、幸いなことに、隠れ家で私が書いた、私の日記は、ナチスに押収されませんでした。1945年の5月に、ドイツが連合軍に降伏して収容所からユダヤ人たちが解放されました。私たちの家族では、私の父親のオットーだけが、幸いにも生きていました。父は、私の日記をタイピングしてくれて、「アンネの日記」というタイトルで、私のために出版してくれました。これが驚くほどの売れ行きで、60ヵ国語に翻訳され、2500万部を超す、世界的ベストセラーになったんです。さらに、1955年には、「アンネの日記」がニューヨークのブロードウェイで戯曲となり、今までに千回以上、上演されています。翌、1956年には、ヨーロッパでも上演され、ドイツでは、100万人以上のドイツ人が観てくれました。さらに、翌、1957年には、アメリカで「アンネの日記」が映画化されました。オランダのアムステルダムには、私の像が建てられ、アンネ・フランク財団、というものが設立され、私の隠れ家のアパートは、歴史の名所として保存され、オランダを訪れる多くの観光客が、見に来てくれています。私は世界的に、平和を願う象徴の人物の一人になることができました。ですから私はこの上なく幸福です」
そう言ってアンネは、子供っぽくニコッと笑いました。
「そうでしたか。そんなことを聞くと、いささか私も救われます。しかし、死なずに生きていれば、もっともっと、たくさんの素晴らしい文学作品が書けたでしょう。それを思うと、やはり、申し訳ない。私はユダヤ人の優秀さに嫉妬していたのです」
ヒトラーはガックリと肩を落として、そう告白しました。
「いいえ。私が、運よく生き延びられたら、これほどの名誉が得られたか、どうかは、わかりません。敗戦の前年の1944年に、隠れ家が見つかり、強制収容所に入れられて、ドイツが降伏する直前に、私が15歳で死んだ、という事実が、あったからこそ、私は悲劇のヒロインになって、全世界の人々が、私を、可哀想に思って、同情してくれてた、という面は、間違いなくあると思います。ですから、結果的に見れば、ヒトラーさんが、ユダヤ人を迫害してくれたために、私は、世界的な名声を得ることが出来た、とも言えると思います。ですから、そう気に病まないで下さい」
心の優しいアンネには、ヒトラーを恨む様子は、全く無く、むしろ、罪悪感で打ち拉がているヒトラーを、何とか慰めようとしました。
「そうですか。あなたは優しく聡明な人だ。しかし、それは、結果論です。私の行ったホロコーストが、それによって、正当化される、などということは、間違ってもありません、し、あるべきでも、ありません」
ヒトラーは、自分に言い聞かすように、きっぱりと言いました。
その時、一人のユダヤ人が、出て来て、ヒトラーの前に立ちました。ヒトラーは、恐る恐る顔を上げました。
「ヒトラーさん。実を言うと、私は、ある銀行の頭取でした。我々ユダヤ人は、昔から迫害されていましたから、ユダヤ教の選民意識もあって、金の取り立は、容赦なく厳しくし、さらに故意に意地悪くしてきました。金の取り立てのために、自殺した人も多くいます。私は、他民族に対し、ざまあみろ、と、いつも心の中で笑っていました。私は悪い人間です。本来ならば私は地獄へ落ちるべき人間だったでしょう。しかし、神は、私がホロコーストで殺された、ということで、私を天国に入れてくれました。私だけでなくホロコーストで殺されたユダヤ人は、神様が、憐れんでくれて、全員、天国に入れて下さいました。ですから、そう自分を責めないで下さい」
そう、ユダヤ人は言いました。
「さあ。ヒトラーさん。土下座は、もう、やめて立ち上がって下さい」
ユダヤ人は穏やかな口調で言いました。ヒトラーは、ゆっくりと立ち上がりました。
ユダヤ人は、ヒトラーの手をしっかりと握り締めました。そして、温和な顔をヒトラーに向けました。
「私たちユダヤ人は、あなたを許します」
その言葉がヒトラーの心に、重くズシンと響いたのでしょう。
「あ、ありがとうございます」
そう言うや、ヒトラーは号泣しました。周りで見ていたユダヤ人たちや、極楽の住人たちは、一斉にパチパチと拍手しました。
「地獄から来られた方々。私たちも、あなたがたの祝宴に入れて下さい。天国では、新しく入って来た人を、みなで祝うのが、慣わしです。私たちは、あなた方の地獄からの生還を祝いたい。そして、これから、ずっと一緒に暮らしていくのですから、これからの末永い付き合いを、共に祝い合いましょう」
天国の住人の一人が、そう言いました。
「ありがとう」
地獄からの亡者たちは、みな、感涙にむせびながら言いました。
こうして、地獄から極楽に生還した亡者たちと、天国の住人たちとの、大規模な祝宴が賑やかに行われました。
お釈迦様は、木陰から、この様子を羨ましく見つめていました。
お釈迦様は、もう人間を地獄に落として、試すような悪趣味なことは、やめようと反省しました。
平成25年5月9日(木)擱筆