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このいまをめぐる星街すいせいという力の観測を、語る(独在性と現実性・そして語りえなさを語ること)
――星をめぐり、すべての生命に活力を与え、このいま、この現実を駆動する力として満遍なく浸透する、星街すいせい。
この記事は、前回の星街すいせい「TEMPLATE」MVに関する記事へつけていただいた感想コメントへの、長くなり過ぎた返答を記事としたものです。コメントに貼っていただいたリンク先「寺子屋塾ブログ」の記事内容については、色々と気づきや引き出されるものなどがありました。
(以下、個人を指す場合のみ敬称を付けています)
やや長くなる本文に先行して、結論を
可能性の様相(言葉、歌……etc)のもとに何事かを語り、受け取り手のなかで様相が分解、解消され、指向性が受け継がれていく――というところまでが、以下に綴ったぼくの語りの狙いです。相手の理解や推論能力も借りて、ようやく語りうることがある。
独我論のアップデートバージョンである他者の神秘、不可知性、いわゆる「独在性」には(なぜか)乗り越えられるという(神秘的な)隠れ仕様がある。そしてこの「不可知さ」は語られなければ、あることにはならない。それを識るためには、伝え、語り合わなければならない。人間各々に能力的限界がある、各々の間にギャップがあるからこそ、です。それは言葉でも、行動でも。拍手ひとつだっていい。
あらゆるものごとが断絶させられていると思われるほどの、圧倒的な深さを有する暗黒を想え。そこに浮かぶ星の表面に私はいる。私は私だけの夜空を見上げ、そこに瞬く光を数え、遠く隔たれてあるだろうここから、あるかどうか(見えているか)もわからない未知の星空へ、光や音を放つ。それが誰かの光である、そこに誰かの空があると信じながら。
コメント内容と哲学に対するぼくの立場
①ウィトゲンシュタイン後期の立場から見たら星街すいせい的なものはどう見えるんだろうとぼんやり思いました。いわゆる独我論・不可知論批判から。
ぼくはウィトゲンシュタインの著書をひとつも読んだことがない、ということを言っておかねばなりません。ですので以下は、知る限りの哲学的な思想の文脈(間接的にはウィトゲンシュタインも含まれる)を導入していきつつも、ぼくがなぜMV視聴において、星街すいせいをあのように捉えたかといいうことを、可能な限り語るものとなります。
ぼくにとっての哲学は、難しい理論の成否をあれこれ論じ合う議論へ参加するものというより、自分の生活へその思考、志向、指向を組み込み、「勝手に使う」ものなので、だから哲学的な整合性や真理かどうかがわからなくても、わりと平気で使ってしまうところがあります。
わかるところを使う、わかりながら使う、使いながらわかる。独自の哲学を作る……まではいけてるかどうか(たぶんいけてない)。当記事も、基本的にそういうものの集合体として了解いただければ幸い。
独我論批判は速やかに、その先のほうが大事
独我論批判と不可知論批判は、同種の批判ではなさそうですね。独我論については「語る相手さえ存在しなくなる」ため、論理が成立すると自動的に自滅するという批判が適切かなと思うのですが、つまりこれは、そもそも独我論が論理として成立しない、という批判です。
しかし私がそのような在り方をしているらしいことについては、確かにそうだと一部うなづけるところがある。
なぜ、この世界に(ほかに並び立つものがない、数え上げが不可能な水準において)ひとつだけ、私だけが他と違う在り方をしているのか。そしてこの、私からは並列不可能にみえる独自さへの問いが、言葉へ変換すると変質してしまうにもかかわらず、なぜか他者に共有されてしまうという不思議さ。神秘。
(かなりざっくりまとめましたが)こうした疑問を「独在論」へとアップデートし、引き継ぎ問い続けているのが、哲学者の永井均さんなのだと思います(詳細は割愛、最新理論は追ってません)。
この「共有されてしまう」という事態が気になる、というかこのような自意識上にみられる断絶がありながらも、架橋や越境を目指すことが可能で、これが達成しうるらしいということが、個人的にはいちばん大事なことであるように思うんですね。ぼくが、個別的に、勝手に思っているだけですけど。
不可知論批判について
ウィトゲンシュタインがどのような意味でこれを批判したのか(そもそも批判しているのかどうかも)わかりませんが、ぼくが埋め込み記事において用いた不可知論という表現は、「そのものの語りえなさ」という意味で使っています。
しかも、それはまさに奇跡ないし神秘なのだから、実のところは語ることすらできていない。無限定の全体としての世界とは語りえないものであるし、また、そのような世界をそれとして直観している私(形而上学的な主体、哲学的な自我)も語りえない。すなわち、「認識する主体は世界のなかにはいない、認識する主体は存在しない」 (草稿: 1916.10.20)。
(…)
無限定の世界全体を直観している私について語ろうとすれば、つまり独我論を語ろうとすれば、それはたとえば自己中心主義の主張に変質してしまう。同様に、世界が存在するという奇跡について語ろうとすれば、たとえば「宇宙に生命が存在するという奇跡」や「生命を育む地球という天体が存在するという奇跡」といった、経験的な内容にまつわる話に変質してしまう。だから、語ってはならない。神秘や奇跡は、沈黙において示され、保存されるということである。
引用は貼っていただいたリンク記事からの抜粋ですが、なぜ「無限定の世界全体を直観している私について語」ることが、即座に独我論と解釈されるのかが、ちょっとわからない。
というか、おそらくここでは、無意識に世界の外部、上位視点から世界を(例えばテニスボールを眺めるように)直感してる「私」が導入されていそうで、それでない私の経験についての個別的報告なら、ふつうに、なにも損なうことなく語りえると思います(この観点については、一つ下の項目で解説)。
それに「変質してしまう。だから、語ってはならない」というのも、なんだか変な話です。誰かがある事物について、それを私的な経験的内容へと変質させたうえで語ると、世界は、そこからどうにかなるんでしょうか。神秘や奇跡がそのとたんに失われる?
そもそもあるかどうかわからない神秘や奇跡を保存するために、どうして黙らなければならないのか。なぜ神秘や奇跡があり、損なわれると言えてしまうのでしょうか。だってそれらは不可知なのですよね、どうやってそれが損なわれると知ることができるのか、そんなのわからなくないですか? 繰り返しになりますが、やはりここには、世界を超越する私の視点が、否定する目的のために、わざわざ配備されている気配があります。
(「現在に生きる者」としての「認識の生」が目指されていることは、いちおう把握してます。そのために必要な「沈黙」であるということも)
ブログ全文はこちらから。
世界内部から全域を指差す
『現実性の問題』の著者、哲学者の入不二基義さんは「全域指向性」という観点(様相のもとでこれを語るための仮止め的観点、といったところ)を導入し、「力としての現実(絶対現実)」を論じます。この世界(入不二さんのいう絶対現実はさらに全域的と思われますが説明割愛)の内部から、全域にひろがる世界を論じることを、ぼくはしたい。これが上記した「なにも損なうことなく語りえる」視点です。
外部性を持たない、枠組みも語りえない、内容も記述しきることができないのだとしても、しかしここ(自分を含む全域を指してます!)にある世界の総体に接する私の経験を、語る。力の限り語り尽くす。
私には全てを語りえないという前提のうえで、むしろそうした前提についても含めて、いまここから見える何事かを題材として語るわけです。
こうした限定は「これ以外」という外部を生じさせます。そして「これ」につながる因果や存在理由などを辿れば無限後退していき、しかもどの対象も豊饒な世界に地続きであり涯がない。(ここで入不二さんのいう現実性や潜在性は豊饒さゆえに語りえないのではない、という議論も挟むべきと思われますが、これも割愛)。現実は人間の感覚、言語力では見通せないところまで続いている、そこらへんからがいわば神秘の――奇跡が潜在する――範囲ですね。
語りえない事物に連なる何かを限定的に、記述の束として語るとき、その外側、あるいは語られ尽くされていない未記述の潜在的内容が、言外には指向されている。ぼくはこれをよく「周辺視野」に捉える物事のように把握します。視界の正面にはけっして捉えられないが、ぼんやりと範囲にはあるように感じられる、何か。
この限定的記述はそれを捉える能力の限界ゆえ、厳密さという点において必然的に失敗します。しますが、それへ向けて放たれた指向性は残る。その指向性、爪痕、痕跡、筆跡こそが、人間を潜在的顕在的に取り囲む、神秘や奇跡の(ぼんやりとした、部分的な、周縁的な)輪郭になるのではないでしょうか。
というか、不可視の内面を有すると思われる他者性、他者同士の間でなぜか理解されてしまうこの、言葉や音楽など様々な表現を用いた、何らかの伝達行為こそ、奇跡含みの仕様なのでは。この地上においては、小さな奇跡がそこかしこで生じ続けている、というわけです。
ウィトゲンシュタインが言うところの、ひとつの総体的な神秘や奇跡があるとして、しかしそれは語られることで目減りなどせず、総量はそのままに、各種の伝達行為というかたちで移転され、形を変えて保存、いやむしろ総量が保存されるどころか、伝達先において増殖されうるのでは。星街すいせいさんの歌と、ReiRainさんのコメントと、寺子屋ブログの記事がなければ、このnote記事がありえなかったように。
逆に目減りする状況というのは、神秘や奇跡がすぐ傍にあるということを識る人が減り続ける事態、なのではないでしょうか。ありもしない何事かを恐れて沈黙を続ける先にこそ、このように予想される未来があるのではないか、と(この意味で、現在の社会状況は嘆かざるを得ません)。
ぼくは神秘も奇跡も「ある」んだよ、と言い残したい。いつか誰かがこの言葉をなぞることで、新しく奇跡が生じることを望んで。伝えたい、という抑えがたい欲望がここにある。神秘や奇跡が何であるかを識る力なくしては、とっかかりもないままでは、ただ見逃されるだけだと思うから。識られないことには、価値がない。
(ここで価値がないというのは、たくさんの人に知られ称賛されるような評価基準、数字の大小といった価値を意味しません。ものごとの個別的な意味が、それを識らずして事物が当人のなかで重要さを生じえない、ということです)
ウィトゲンシュタインが構想した(らしき)「認識の生」という方法論は、ぼくが思う限りでもおそらく正しそうですが、「いろいろ知ったうえで、その神秘や奇跡を語っている」ということも言い添えたくなります。有から生み出される無(=不在)と、はじまりから無である無(無でしかない無)は、違う。
そもそもウィトゲンシュタインだって、語りえないはずの神秘や奇跡をあるものとして語るという、自ら設定したルールを違反してしまっているわけで、けっきょくのところいかなる救いの方程式にだって、少なくとも最初の伝達が、表現による架橋や越境が必要ということを、自ら明かしているようにみえます。
返す返すですが、この「現実」を記述しきるのは不可能です。ぼくが「不可知」として最終的に志向するのは、この不可能性であり、これを伝えたい。もしかすると「全知不能さ」とか言い換えてもいいかもしれません。私は全知不能であるがゆえに、失敗することを前提に、指向性として、うっすらと痕跡を残すような仕方で、しかし諦めることなく語り続けねばならない。
言ってしまえば、自分だけの理解のみにとどめて黙ることのほうが、よほど独我論的だと思います。伝達可能な相手が、自分以外に存在しないものと、諦めてしまっている。でも、そうではないはずですよね。少なくともあなた(全域指向!)のいうことが、ぼくにはなんとなくにせよ、限定的にせよ、わかるのだから。
ウィトゲンシュタインと星街すいせいはこう語った(かもしれない)
「私の言葉(歌)を聴け、そしていまお前が抱える言葉すべて吐き出したら黙ってよし、それまでは語り尽くせ、私にそれを飽きるほど語り聞かせろ!」
ネット上にあげられている感想やら思索やら解説やらをかき集めて総合するに、ウィトゲンシュタインの言ってることって、こんなことじゃないかなあという気がします。まあ著作ぜーんぶ未読なんですけど。
そしてあの「TEMPLATE」および「ビーナスバグ」MVに表現された可視/不可視の星街すいせいも、全リスナーへ向け、このようなことを求め、働きかけているようだと感じられたのでした。
皆皆 御唱和あれ!
あなたの感動も称賛も非難も、全て語り尽くしなさい。それらを全て力に変えて、私はさらに私を変革する。私の変革はすなわちあなたの変革である。星街すいせいという様相のもと、求め、求められ、変化させ合う相互関係が、宇宙の闇に深々と音を響き渡らせるかと想像するほどの、巨大なオーケストラが結成されていく。たったいまこの瞬間にも、遠く深く、声は広がり続けている。
といったように、あれらMVにおける演出は、指向性や痕跡を残す仕方でしか表すことができない、星街すいせいさんとその制作チームが抱く、ある種の野望とでも言うべきヴィジョンをにおわせる、ひとつの冴えたやりかたのように「ぼくには見えた」のでした。星をめぐり、すべての生命に活力を与え、このいま、この現実を駆動する力として満遍なく浸透する、星街すいせい。
端的に言ってしまえば、単なる個人的な経験の報告なのです、冒頭に埋め込んだ記事は。もしかすると考察かもしれないし、批評でありえるかもしれない。どうあれなんであるかを分類・判定する能力をぼくは有さないけれど、ただここで断言できるのは、あれが、紛れもなく極めて個人的な、必然的に失敗する運命を宿す空説であった、ということ。これだけは言えます。
とにかく語らずにいられなかった。ぼくはこれを誰かにわかってもらえることがありうる、と信じているので。ぼくが少しでもわかるなら、誰かも少しはわかる、そうであると信じているので。
もっと完璧な言葉を紡ぎたくて
ずっと欲張って
きっと間違えて
それでも歌おう
不完全だから
もちろんぼくが言うことはどれも奇麗事なのですが、理想や奇麗事なしには生きていけない。言葉を尽くさずにもいられない。
「認識の生」について(やや余談)
永遠の相のもとで、世界が存在することを神秘として見ること。それは言い換えれば、世界内のいかなる事態に対しても驚き、その一切をいわば奇跡として見るということである。世界のあり方が具体的にどうであるかは全く関係ない。どんな状況であろうとも、その一切を驚きをもって、奇跡として見る、ということである。
「現在に生きる者」として「認識の生」を生きることは、究極に近い理想論でしょうね。これは、いま頭上を飛ぶ爆撃機から落とされた爆弾を、自分に向かって弾丸を放つ火花を、華やかなスペクタクルとしてのみ把握すること。このウィトゲンシュタインの示す方法論は、おそらく入不二さんの言う現実性へ肉薄している。ただ、神秘だの奇跡だの驚きだのといった様相は、残されてしまっているけれど。究極に近い、としたのはこの部分の不完全さゆえ。
ポップミュージックの「ぼく」とキタニタツヤ
②ポップミュージックの「ぼく」は、交換不可能な歌い手本人のことを表しているようで、実は空っぽで感情移入しやすい交換可能な「ぼく」であるという、レトリックを採用していることが多いです。この『TEMPLATE』という曲や、キタニタツヤの曲もそういうものなのかもなあ、と改めて認識しました。
実はキタニタツヤさんのことをあまり知らず、曲名でわかるものなど「青のすみか」か「TEMPLATE」くらいで、ヰ世界情緒さんの歌ってみた「ずうっといっしょ!」も、しばらくキタニタツヤさんの曲と知らずにヘビロテしてたほどの音楽業界音痴なのですが、ReiRainさんのキタニタツヤ論考を読み、アルバム「I DO (NOT) LOVE YOU.」を通しで聴いたところぶっささりまくり、その夜を泥臭い感情の水底で過ごすことになりました。クソほど凹まされて好きになるって、なんなんですか。
そしてご指摘にある「交換可能な「ぼく」」についてですが、「交換可能であるような誰かというロールから絶対に逃れられない、これ以外の何にもなれなない、どこへも行けないぼくのしょぼい主人公性」という、絶望の二重底をつい開けて(勝手に作り出して)覗いてしまうんです。交換されたり棄てられたり見下されたりしようが、どうあれぼくはこのぼくでしかない……そういうぼくの感傷告白が引き出されたのでした。
参考文献について
入不二基義さんは新著『現実性の極北─「現に」は遍在する The Ultima Thule of Actu-Re-ality 』が青土社から2025年6月に出版予定。
前回の記事で触れた自由意志などについて、ぼくが(不完全な理解ながら)よく参照するのは青山拓央さんの著書。note記事もいくつかあるようです。
永井均さんの著作。シリーズは3まであるようですが、ぼくが既読なのはこれ以前の、『私・今・そして神 開闢の哲学 』(講談社現代新書)や、『転校生とブラックジャック』(岩波現代文庫 学術 238)など、いくつかの著作。
記事では触れていませんが、断絶の向こう側を考えるには飯森元章さんの『暗黒の形而上学』が面白いです。哲学議論の文脈へ新海誠監督作品や物語シリーズが、カフカ論へ転スラが接続されたり、略称MODと呼ばれる哲学理論も(名前がかっこよくて!)好き。ここnoteにも、いくつか記事が存在します。
カール・マルクス『資本論』をいま読んでいるところなのですが、当記事に対しても影響が大きく、かなり重要なインスピレーションを与えてくれている……というか、資本論で語られる内容がすいちゃんの事情へと脳内変換されるので、その意味でもなんだか面白い。読むのがたいへん、ではあるけれど(1日20頁ほどが限度、いま上巻の半分読んだとこです)。