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雨森たきび『負けヒロインが多すぎる!』3巻まで読んだ雑感やら雑考やら
わからなさが響き合う(概ね2巻の話)
異世界転生にカップリング論、ぬっくんと八奈見さんの会話(2巻3敗目あたりまで)などを、いずれも当事者不在の状況と考え、こうした創作や想像という他者観点の及ばなさから、当事者同士が面と向き合うことの価値が焦点化されるまでの助走と読んだ。
強調したいのは、八奈見さんが言うように、各々が巻き込まれた当事者であり、見方を変えれば必ず、それぞれ何かしらの当事者なのだということ。
(この当事者には作家や読者も含まれ、作品じたいもまた作家の創作で、作品は不可視の他者と言葉を交わす、語りかけの様相をもつし、読書感想はそれへの応答である)
複数事情の重ねあわせであるこの当事者性は、どれも全く同じでありえないのは当然、往々にしてその構成が不可視ゆえ、必然的に不可解であり、異質だ。しかし、これが必然であるなら、同時にぼくらは同質なのでもあるだろう。異質な他者に囲まれた私という身体、孤絶する体験の当事者としての質を、ぼくらは共有している(ということが、類推によってか……共感によってか……どういうわけかわかっている)。
マケインを読んでいると、人であることの不可解さが表面化する各種事件の顛末から、全く異質でありながら同質でもありうるという、人間一般の普遍的な性質が見えてくる。一見して極めてエンタメ的、ラブコメ的な成り立ちから見透かせる(作家サイドを含む)それぞれの思い(あるいは構想)には、単にラノベと一括りにしてしまってはもったいない、読み込まれるべき文脈の豊かさがあるように思う。
こんなふうにキャラクタの心情や各種描写の多層性、関係の深層を読み込み、毎日ああでもないこうでもないと作品読解についての悩ましさを更新しつつ、それでも感想を書くのが愉しみであるような小説は、ぼくがもっとも好ましく思うものだ。ひとつの小説と長く付き合っていきたい身には、渡りに船というところ。
負けヒロインが面白すぎる!
この「負けヒロイン」なる概念に、これほど親しむ日が来るとはしょうじき思わなかった。むしろこうした型に嵌め込むようなキャラクタ理解の仕方を忌避していたくらいなので、読めば読むほど目から鱗が落ちてくる次第。
恋愛事情という勝負事において、事後が事後ではないという、その後の成り行きを見守る面白さも、そもそも勝敗という二元論に回収されない人間関係の面白みも、このマケインにはある。
いつか負けヒロインが勝ちヒロインへと変態し、物語を卒業していく可能性もあり、また、もっと大胆に、規範的な勝敗システムそのものが、蛹のように脱ぎ捨てられていく可能性だってあるだろう。そのように、勝負に挑んだ証としての「負け」の称号を、単なる結果に留めず、未だ見ぬ何かへ飛翔する準備段階とみる。元より現世では、あらゆる事象が通過点でしかない(そして、それゆえぼくを含む多くの人々は、迷妄を脱することがないわけだが)。
外見的には単純化されたカテゴライズに見えても、実はさまざまな読解可能性があるのだと知り得たのは、冒険心を以て作品へ触れてみたからこそ。ちょっと踏み出してみた、そしたら新しい知見に出逢えた。これだって未知の書物との勝負に挑んだ、読者としてのちょっとした勇気の産物と言えるかもしれない。その先でたとえ負けたとしても、そうして少しずつ負けながら、少しずつ何かになっていくことができる。
それではぬっくん、キミの話をしよう
ぬっくんが自認するモブ性は、端的に言えばメインキャラクタの背景であるようなキャラクタ、だ。しかしここでは飛躍して、人が考えつく限りのあらゆる物語可能性を内包する、際限なき外部性(これでなさ性とでも言おうか)を示す概念である、潜在性の象徴あるいは萌芽なのだ、と大風呂敷を広げてみたい。どんなモブも、これから先、何かであり得る故に尊い。
どこにも属さないから、フットワーク軽く、誰にでも寄り添える。何色にも染まり切らないから、場面に応じ補色となり、メインカラーを引き立てる。まるで最弱が最強のオールマイティみたいな、倒錯した存在の面白さがあると言えるのだけれど、だがこれが「そういうとこと」言われる所以である。
色恋沙汰のあれこれを前にして、あっさり「俺だぞ?」と言えてしまう、ぬっくんの門外漢ぶりは何処へ向かうのだろう。いつかはこの、いまのところ灰色自認である微温的世界が、じつはバラ色の学校生活だったのだ、と思い出されるような日が来るのだろうか。どうあれ興味は尽きない。
さて、ここまでモブについて大言壮語的な「きれいごと」のようにまとめてきたわけだけど、もっと大事なことは「きれいごと」の枠に収まらないこと、なのではないかと思っている。行きつ戻りつ、善かれ悪かれ、ときには転んだり柄にもなく叫んだり怒ったりしたっていいはずだ。ぬっくんの行く末がどうなるかは神のみぞ知る(きっと作家でさえ思いもよらない可能性が、ここにはある)。ぬっくんはすごく面白いし、これからも面白そう。
最後に余談
上記感想の骨子となる5割ほどは3巻2敗目の時点で書き終えていて、3巻を読み終えた今、なるほどやるわね、わたくし見事に手のひらのうえで転がされてるわね、という思いを抱きつつこの雑感・雑考を加筆、推敲していた。4巻もなんだか一筋縄ではいかない様子だ……(イマココ)