美大生だけど、正味、「美とは何か」とか馬鹿馬鹿しい
なぜ「美とは何か」という馬鹿馬鹿しい問に対して、哲学者達は必死に考えてきたのだろうか。
いや本当に。
「美とは何か」という問いの立て方が先ず間違ってんだよね。
「美」という概念が日々の生活の中で歴史的文化的に、どのような利用のされ方をしてきたのか、ということを考えることの方が、よっぽど有意義だ。
美学を勉強すると、いつもそんな気になる。
というか、哲学全般そんな感じだ。
結局のところ、主観的な持論をさも絶対的な真理であるかのようにして皆の共通了解にしたがる、そんな自己陶酔も甚だしい傲慢な理論のように思える(思想哲学に限らず、広範に哲学上の議論を見つめるならば、必ずしもこうであるとは言えないかもしれないが、いずれにせよ、今日客観的事実として認められるような哲学上の理論や言葉は、おおかた心理学や脳科学の分野に統合されているように思う。)
もっとも、歴史的に見れば近代以前の大思想家が人々の思考様式にあときな影響を与えていた時代には、ごく普通のことであったのであろうが。
しかし、そんな古臭い非現代的な考え方は、遅くとも戦後には既にオワコン化しているわけで。
じゃあ「美」っていう概念はなのかって言うと、結局、「人が好意を抱く対象に付属させる最も抽象的な概念」と言えるのではなかろうか。
例えば、「美食」といえば美味しいご飯を意味するし、「美談」といえば良い話を意味する。
日本人が言葉を否定する時に「不」や「非」という感じを使うのと同じように、「美」という概念は「印象の良いモノ」という抽象的なイメージのみによって定義されている。
そこに、「美」という概念に対する文化的な規定や一般的なイメージが加わり、社会活動の中で利用され、今日における「美」という概念を取り巻く仕組みが出来上がっている。
私はそう考えている。
だから、「美とは何か」なんてものを考えて、勝手に定義を作り出したとこで、なにか新しい知識が得られるわけでないのだ。
哲学を勉強する時には、結局、その背景にあるものを考えてメタ的に考えなければ真の意味で理解するのは難しい (もちろん、様々な考え方に触れて、自分なりの答えを出す、というのも良いけれど)。
いわゆる言語論的転回と言うやつだ。
主観的な持論で物事の本質を勝手に定義して、それがあたかも世界に最初から存在した真理であるかのように語る、それは愚かなことだ。
哲学上の思想なんて、結局のところ人間の創作物の一種でしかない。
人は分からないものに対しては答えを出したがる。だから、実際は答えなんか存在しなくて、問自体が無意味なものであったとしても、答えを定義して、なんとかして自分を納得させようとする。
いや、もしかするとそういった活動も重要なのかもしれない。人の人生なんて、ハッキリと答えの出ないことの方が良いのだから。 そんな中で、何かしらそれらしい答えを定義した方が、心に迷いがなくなってよい場合もあるのかもしれない。
例えば倫理学や人生論なんてのがその代表格ではないだろうか。
哲学それ自体を考えるより、その背景にある歴史的背景や辞書的な意味を考えた方が有意義である、というのが持論ではあるが、それが「人生における答えの出ない問題に対して一定の説得力ある持論を定義して心の芯にする」という目的のもと有用である場合は、むしろ非常に有用なものとなるかもしれない。