ピアノ習ってみない?
小学一年生に上がる春のことだった。つくし取りにでかけた近所の畦道で、知り合いに会ったのか、母は誰かと話を始めた。私は聞き耳を立てながら、にょきにょき生えてるつくしを取っていると、その声が聞こえてきたのである。
それは、明らかに私に向けられた言葉だった。逆光で眩しいけれど、声の印象は柔らかな人だった。その隣で母は、困ったようなどうしようというような顔をしていた。そこだけが神経が張り詰めていた。「これは『良い子』のお返事をしなければならない」そう思った私は、「いいよ」だったか「はい」だったか、とにかく肯定する返事をした。
一瞬で空気が柔らかく変わった。母は相変わらず困った顔をしていたけれど、張り詰めた空気は無くなっていた。
【ピアノを習う】ということが、どういう事か、意味もわからず返事をしてしまったために、その後、つくし取りやつくしの袴とりは上の空だった。
もちろん、ピアノは保育所にもあったので知っていたけど、『習う』という事がどういう事かぼんやりとしかわからなかった私は、何かするんだろうな、またお母さんが怒らないと良いなぁということばかりが気になっていた。
こういう事がわからないのが、成長の遅れだったのかもしれないと今になって思う。
『教えてもらう』イコール『習う』
ということが結びつかないのが、ADHDゆえんのことだったのかもしれない。
始まりはこんな感じだったし、練習も嫌いだったけど、音楽好きでピアノも好きになるきっかけになったのは、良かったなと今でも思う。ジャンルこだわらず、どんなアーティストの音楽も楽しめるという、何でもない才能だけど、授かったのは私にとって、大きな事だったと思う。
そして、音楽好き、絶対音感、相対音感は次男に遺伝している。次男もADHDと自閉症スペクトラムという、私と同じものを引き継いでいるけれど、これが彼の強みになってくれる事を願ってやまない。