15年ほど前だろうか、同窓会があった。 いきなり 「さとちゃん、ごめんね。ひどいこと言って…。ずっと気になってたの」 そこには、小学校の時から背が高くて運動神経万能のさっちゃんがいた。奥二重だったり、ハッキリと物を言う性格から、みんなに怖がられていた。 私はさっちゃんが嫌いじゃなかった。さっちゃんの言うことは、キツイけどまっすぐだったから。それに、内向的な私とは、そもそも接点が少なかったから、その言葉に少し戸惑った。思い当たる点が何もなかったから。 「何かあったっけ?」
「もう気づかれてるよ」 そう言ったのは、同僚のすーちゃんだ。同僚のすーちゃんには、私が発達障害だと明かしている。 …というか、私が発達障害だと見抜いた2人目の人物がすーちゃんなのだ。 1人目は言わずと知れた私の鬱の主治医。「発達障害がありそうね」と匂わされていた。 すーちゃんは、私の職場に転職してきてすぐに仲良くなった。親しくなってすぐ、すーちゃんは私に 「発達障害あるでしょう?」と言ったのだ。それを受けて検査をして。54歳にて、めでたく?診断が下りた。 検査の申し出に
同級生の訃報を聞いた。 卒業以来、会ってないからもう40年も経つのに、何となく、胸に重い空気が漂った。 彼と遊んだ事もないけど、同じクラスだったなぁとか、彼は転校生だったなぁとか、小さな事はいくつも思い出せる。 けれど、何となくずっと生きているように感じていた。 少し前に訃報を聞いた彼女とは、5年前の近隣メンバーでの同窓会で会ったばかりだった。元気よく子どもと電話で話す姿は、まさか、その2年後に亡くなっていたとは思えないほど、活発で懐かしかった。 今でも、彼女とのLIN
私が住んでいたのは、ちょっと奥に行けば、トトロが出そうな田舎町。学校の理科の授業では、裏山に行っては、柿などをもいで食べたものだった。 そんな田舎の学校に、遠い町から転校生がやってきたのは四年生の時。県庁所在地でもある町から引っ越してきた上原くんは、その存在感が周りの子たちと一味も二味も違っていた。 足も早くて運動もできる、頭も良くて明るい性格となると、周りのみんなの目を一瞬にしてさらっていった。 田舎の子猿どもとは違う。都会の子。おまけにカッコいいとなると、色めき立つ
今年は長めに休みをとって故郷へ。久しぶりに花火大会も見ることができました。
くみちゃんと言う子がいた。 引っ越してきた子で、色白で目の色も髪の色も茶色がかっていて、かわいらしい子だった。 頭の回転も早くて、スポーツもできる。そんなくみちゃんは、すぐに人気者になった。 家も同じ方向だったし、小学校の頃はよく遊んだけれど、何となく思い出せないのだ。 とても明るい反面、陰の部分もあって、笑って人を傷つけることを平気で言うようなところがある子だった。 覚えているのはみっちゃんが、言ってた一言だけ。 そんないじわるを平気で言うくみちゃんが保育園の先生に
小学校の夏休みは毎日のように、学校のプールへ通った。当時は毎日あったし、少なくなった時でも、奇数学年と偶数学年と分かれて入れるようになってたりした。 小学生といえば、ぐんぐん背が伸びる時だ。自分が背が伸びるということが、私にはよくわかってなかった。 小学校のプールは低学年用の浅いプールと高学年用の深いプールがあった。 多分、3年生の時だったと思う。 あれ? 私は戸惑った。プールが浅い。手が届いてしまうほどに感じる。 多分、急に背が伸びたんだろう。それが私にはわから
高学年の頃、1番の人気はピンクレディーだった。ミーちゃんが好きだとか、ケイちゃんが好きだとか、毎日、言い合っていた。 私は何となくケイちゃんが好きだった。ミーちゃんが嫌いなわけではなかったけど、パッと2人を見た時に目を惹かれるのは、ケイちゃんだった。 ある日、その話が女子の中で白熱を帯びてきて、じゃあ、「どっちがいいか、多数決で決めよう」ということになった。 そんな事で諍いあうのも馬鹿馬鹿しい事だけど、なんだか、みんな、真剣になってしまったのである。 私はことの成り行
みなさんは初恋がいつだったか覚えていますか? 私は、気が多いのか、軽い気持ちなのか、どれが初恋だったのか全く見分けがつきません。 例えば、すぐ裏の家のすーくんは、小さい頃によく遊んで、いるのが当然の存在で、お互いの家を行き来する関係だったし、せいじくんは、保育所時代から、話しやすくって、3月の節句に男の子で1人だけ誘ったのを覚えている。 かずひこくんは、「男の子なのに【こ】がつく名前なんて変わってる」ってだけで、保育所時代にとても意識していたし、町から引っ越してきたけん
みちるちゃんと言う子がいた。とても活発で、おふざけもお勉強もスポーツも何でもできて、男女問わず人気がある子だった。 いじめてると思えば、庇ったり、この子の真意はどこにあるのだろうといつも不思議に見えていた。真面目に話してたと思うと「なんてねー」とおちゃらけたり、男子とも対等にやり合う度胸も持っていた。 学級長にはならなかったけど、何らかの委員には必ず押される子。誰もが一目おく存在。 嫌いではなかったけど、みちるちゃんのコロコロ変わる変化に私はいつもついていけなかった。
母は4人姉妹で婿をとって、跡を継いだ。1番長女の叔母は、仕出し屋をする叔父に嫁いだ。母より6歳近く年上の叔母は、戦中戦後の大変な時代のことをよく覚えていて、戦死した祖父のこともよく覚えていて話してくれた。 叔母は「年寄りでもなんでもええ、金持ちに嫁ぎたい」が口癖だったそうだから、その頃の貧しさは相当なものだったのだろう。その叔母が選んだのは、働き者の叔父だった。 一応、仕出し屋にも休日はあったが、注文があれば、決して断らない人だった。だから、いとこたちは、運動会で一緒にお
『道草を食わないで帰りましょう』 小学生の頃は、こんなふうに学校で言われたものだった。今どきの子はどんな言い回しで指導されるのだろう? 『寄り道しないで、まっすぐ家に帰りましょう』 と言うあたりが無難な言い回しだろうか。 私の育ったのはトトロが居そうな田舎…と言えば大袈裟だけれど、自然に恵まれた地域だった。県庁所在地から急行で1時間程度の場所で、学校の近くには、駅から徒歩15分ほどと言うこともあって、新興住宅地もできていた。だから当然、空き地もところどころにあった。 空き
子どもの頃はあまり病気をしない元気な子だった。ケガも転ぶ程度で、骨折などしない。 だから骨折で肩から包帯で腕を吊っていたり、 風邪をひいて声がしゃがれて出なくなるのが羨ましくてしかたなかった。 バンドエイド一枚で終わってしまう怪我は、誰からも心配されず、気にもされない。ちょっとした突き指で小さな湿布も同じようなもの。 なんだか、一応、痛いんだけどな…と思いつつも私なんか誰も心配してくれないんだなぁという孤独感が、常にあった。 それは、弟のインフルエンザのことを書いた時の通
小学生の頃から、足が速そうに「見えた」。細身の私は、スポーツができそうに見えたけど、実は鈍臭くて、体操では後ろから数えた方が明らかに早いほど足も遅いし、球技も苦手だった。 ドッジボールでは、逃げるのはうまかったけど、取って投げるなんてことをしたら、すぐに当てられてしまう。得意なのはポートボールのゴールくらいなもの。あと水泳も何故か得意だった。 そんな見た目とそぐわない事にコンプレックスを抱いていた私は、6年生の時、スポーツ少年団に入団する。学校でやっていたし、入団は自由だ
お昼寝は大好物だ。といえば、脳天気なイメージがわくだろう。 私のお昼寝は小学校の頃に遡る。 日曜日は近所の子と遊びに行くのが、通例となっていた。登校班の集合場所や公園に行けば、誰かいたので、人の家に呼びに行くことは、あまり無かった。 家でも「遊びに行きなさい」と言われ、友達の家に呼びに行くのが苦手な私のことを母は「ヘボ(弱虫)やなぁ」とバカにした。 「りえちゃんの家でも遊びに行けばいいのに」と母はよく言っていたが、行けない理由があった。 ある時、りえちゃんのお母さんにこう
おばちゃんのことを本当の「おばちゃん」という親だと思っていた。おとうさん、おかあさん、おばちゃんとは同列、いや、それ以上だと、思っていた。 未満児保育が充実していなかった片田舎で、おばちゃんは近所の人の子を昼間預かっていた。生まれて半年から預けられていた私は、母に連れられて帰る時 「おうち帰る」といって、 おばちゃんの家に帰ると大泣きしていた記憶がある。 おばちゃんの家には、トトロに出てくるような井戸もあったし、大きなお兄ちゃんやお姉ちゃんたちがいた。そこで夕飯を食べ