摩多羅隠岐奈ちゃん
廃仏の火は燻り続ける
江戸時代、愛欲や煩悩を積極的に肯定し「交会」をもって悟りに至ろうと解釈する玄旨帰命壇は淫祠邪教と看做され弾圧された
明治政府は国家統合の基幹を神道と位置付け、神仏分離令を発端とする廃仏毀釈の影響もあり、玄旨帰命壇の本尊であった摩多羅神への信仰は著しく廃れていった
神仏分離令はそもそも神仏習合を廃止し、神社と寺院を明確に区別する為の政策であった
しかし特権階級にあった仏教徒へ不満をもつ民衆や、江戸時代からキリシタン大名らの抑制政策、光圀成立の日本古来の伝統を追求する水戸学の影響を受け、仏教への弾圧が進んでいった
古くは伝来当初から祟仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏による対立が起きていたが、物部氏の没落もあり仏教は日本へ浸透することとなる
再び廃仏運動が盛んになるのは江戸時代、儒教の立場から起こる神仏分離の動きやキリシタン大名らの抑制政策により寺社仏閣が整理されていった
向原寺に仏は微笑むか
さて儒教が廃仏を進めたファクターに日本仏教の道を開いた聖徳太子、仏教権威を否定した徳川家康が挙げられる
江戸の儒教学者の多くが日本仏教を築いた聖徳太子に恨み節を吐いた
葬式仏教として先祖供養等の社会的機能を普及させた徳川家康は幕藩体制の礎として儒教に重きを置いた
家康を切り取ろう
幕藩体制強化の為に取り入れたのは政治・道徳の学問としての儒学であった
代表的な「士農工商」は元をたどれば漢書に見られる「士農工商、四民に業あり」との文言から民の職業は4種類に大別され、転じて老若男女のような「民全体」を表す言葉とされる
つまるところ「社会全体のあり方」に焦点を置く儒教の精神は家康の描く幕藩体制にとって大変に都合の良いものであった
それは儒教の「五倫」にみられる身分的な上下関係を基にした君主への奉公、幕府を頂点とする社会秩序の維持を図るために最適解ともいえるものであった
そもそも江戸時代に仏教が大衆に広まった要因として寺請制度が挙げられる
檀家に入り経済支援を行う代わりに寺院は葬祭供養一切を取り仕切るもので、これが「葬式仏教」たる所以である
寺院は檀家を管轄するため寺請証文や宗門人別帳の登録を行い、これらは現代の役所の原型となった
落雷と憔悴
話を排仏運動に戻す
明治期、神仏分離と排仏運動が盛んになる背景には攘夷論が一つの要因となろう
開国後の日本は欧米列強の帝国主義の波に晒される形となる
他国との摩擦が生じ、それは鎖国による封建社会が成熟していた日本において、外来者を排斥する機運が高まることを意味する
この外来者の排斥運動は、平田篤胤らの国学思想からくる民族意識の高まりも相まって、尊王攘夷の機運がとみに高まった
「泰平の眠りを覚ます上喜撰たつた四杯で夜も眠れず」という狂歌にもあるように、徳川幕府は異国の脅威に触れ、こと「外来のもの」には非常に敏感であった
民族意識から日本古来の伝統を重んじる尊皇思想と外来者の侵略に対する排斥意識の攘夷思想は、平田篤胤の復古神道にみられる儒教、仏教以前の日本古来の精神への回帰を促進し、それは明治維新の思想的側面を形成して廃仏毀釈果ては神道国教化を推進していったのである
このような変遷を辿る廃仏毀釈に影響を受けたのが最初に触れた玄旨帰命壇の本尊たる摩多羅神である
外来宗教である仏教、その仏教の神「秘仏」である摩多羅神はその信仰を急速に失っていった
そして現世での迫害を逃れる為、「後戸」へ姿を隠したのかもしれない
そうだね、摩多羅隠岐奈の話だね
丁未の乱、幻想入り
廃仏毀釈の流れを鑑みると、排仏派の物部氏をモデルとする物部布都と仏教の神であり秘仏たる摩多羅隠岐奈は不倶戴天の敵となりそう
もっとも自身が遣える豊聡耳神子は日本仏教の開拓者ともいえる聖徳太子であり、同僚は崇仏派の蘇我氏をモデルとする蘇我屠自己なのだからその心中や如何にって感じです
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