花咲く庭にだいこんを#3 「菜園の視覚的な秩序」
庭で野菜を育てようと決意して、まず最初に思いつくのは、野菜を育てるスペースに枠をつくることかもしれない。
ヤマボウシとか、ドドナエアとか、バラとか、ミヤコワスレとか、ウェストリンギアとかが植わっている庭に、たいていは四角く区切った場所を用意し、ここから内側は野菜のみが生育する権利を有すると庭の植物たちに宣言する。
庭の菜園に、本当に枠は必要なのか?
レイズドベッドのメリット
通常、野菜を育てる場合、周囲より少し土を高く盛って、畝(うね)を立てる。野菜の種類によって異なる水分要求量を畝の高さで調整するわけだ。乾燥を好むトマトなどは高めに、根が浅く水を好むナスなどは低めに。
畑を見ればわかるように、枠がなくても畝は立つ。庭における菜園枠の制作理由にはならない。
土留めとしての枠を設置し、数十センチの高さに土のレベルを上げてつくる植栽スペースをレイズドベッドといい、家庭菜園と言えばレイズドベッドという感じで紹介されている。これも枠の一つだ。
レイズドベッドのメリットとして挙げられているのは、
①良質な培養土を入れれば、耕したり土壌改良をする必要がない
②土壌の通気性・水はけが良く、植物の生育が良くなる
③風通しや日当たりが良くなる
④かがまなくていいので作業が楽になる
⑤見た目がオシャレ
など。
①について言えば、敷地条件によっては大きなメリットだと思う。ただ、市販の培養土を買ってきて使うというのは、せっかく不耕起という自然の不思議さを目一杯感じられる栽培方法を採用しようとしている立場としては、簡単に首肯し難い。
②の通気性や水はけについては、やはり敷地の土壌次第ではメリットに数えられるが、もともとの土壌に問題がない場合は特に必要な措置ではない。
③はメリットの場合もあれば、デメリットの場合もある。今年(2023年)の夏のように暑いと、風や日照は少し抑えてやりたいし、数十センチの高さが日照の確保にどれだけ貢献するかは、季節にもよるだろうけど、よくわからない。
否定的なことばかり書いているが、レイズドベッドを否定するつもりはない。条件によってはレイズドベッドは最高の解決策になり得る。たとえば膝や腰に負担をかけられない人、車いすの人が農作業を楽しみたいと思えば、土のレベルを上げることは良い提案だ。
ここまで考えてきてたどり着くのは、結局のところ⑤、見た目の問題で私たちは枠をつくろうとするのかもしれない、ということだ。
見た目のいいことに越したことはない? それはそうかもしれないが、見た目を優先することによって失われることがあるとしたらどうだろう。再考の余地はある。
西アフリカの「ごちゃ混ぜ栽培」
大きな船と圧倒的な武力を背景に西洋諸国がアフリカやアメリカ、アジアへ進出していった時代、いわゆる“未開”の土地の土着の農法に出会った西洋人の驚きは、数世紀の時を経た現代の私たちにとっても新鮮なものとして伝わってくる。
たとえば19世紀の西アフリカを訪れたイギリス人の農業普及員は、次のような風景を見た。
近代西欧文明は進んでいて、アフリカは未開の土地であるという先入観が、この農業普及員(あるいは私たち)の目を曇らせていた。その後の研究のなかで、次のような事実が判明する。
庭で野菜を育てるというのは、それぞれ固有の条件のもとで土着のシステムを編み上げるプロジェクトだと言える。私たちが見慣れているような、整然と並んだ畝に、同じ種類の野菜を一列に並べて植えることだけが、唯一の正解ではない。視覚的な秩序とそのシステムの完成度は別の次元の話だ。
環境条件や目的が違えば、ソリューションも当然異なる。
菜園の枠というのは、「視覚的な秩序が整っていなければならない」という思い込みの産物に過ぎないのかもしれない。
変化の可能性にオープンであること
ここで提案している庭での野菜栽培というのは、育てたい野菜が先にあって、それに合わせて無理やり環境をいじる(耕し、肥料を施し、殺虫剤や除草剤を散布する)のではなく、観察し、実験し、その場所にふさわしい野菜を選んで育てていくという道筋のものだ。いわば、ボトムアップの野菜づくり。
だから、当初の計画は参考程度のものであって、やりながら計画そのものが思いもよらない方向に変更されていく蓋然性は高い。枠は、変化という決定的に重要なことの可能性を閉ざしてしまう恐れがある。
結果として枠が必要になることはある。枠そのものが悪いわけでは決してない。視覚的に整っているほうがシステムとして優れているという思い込み(生物の身体や生態系を見れば、ほとんどの場合、話が逆だ)を一度捨ててみることが大事なのだ。
せっかく自由を手にしているのに、それを自ら手放すことはない。