睡眠サロンΔ(デルタ)【架空未来日記1】
8時間続けて眠るのはいつぶりだろう。会社に勤め始めてからはほぼ毎日2時間睡眠だったので、そう考えると約5年ぶりだろうか。とはいっても学生のころから急速睡眠装置を使っていたから、ひょっとすると10年ぶりくらいかもしれない。
控室で“砂抜き”を待つ間、私はこうして日記を書くことにした。明日目覚めたとき、私はこの日記を読んで自分の変化を実感するだろうか。それとも何もかわらない?ともかく、寝室に雑念を持ち込まないためにも、思いつくことを脈絡なく書き付けていこうと思う。
この睡眠サロンΔは多少値は張るが評判が良い。単に睡眠の時間と場所を提供するだけでなく、睡眠前後のケアも充実している。今は“砂抜き”の部屋で自然と眠気がやってくるのをゆったりと待っている。グレーの壁に、ウォルナットのデスク、温かな色合いの間接照明。ハーブティーの用意もある。なにより寝室は地下にあり防音設備もしっかりしているし、全くの暗闇にすることも可能だ。寝具や睡眠薬の種類が豊富なのも魅力的だ。マンションの一室を間借りして提供するだけの業者とはわけが違う。
ヒュプノスの技術が確立してほとんどの人間が2時間睡眠で事足りるようになった。肉体的な疲労の回復には別途薬品を用いる必要があるが、一日の活動時間が22時間にまで伸長したことの意味は計り知れない。意欲のある人間は一日14時間働くこともできるし、のんびりと余暇を楽しんでもいい。長らく人口減に悩まされてきた先進諸国は、人口を増やさずとも労働力を確保することができた。活動時間が増えれば消費も増える。経済も持ち直した。ただ、欧米諸国がこの技術を独占できるのはあと数年で、それ以降は世界中が短時間睡眠を標準とすると言われている。そうなれば国力は再び逆転してしまうだろう。
私はいわゆるV字型睡眠、つまり日中の起床時間を最大化する生活を送っている。午前中から昼にかけては統計局の分析官、午後から夜にかけては倉庫の清掃を行っている。統計局の仕事は頭を使うから、一日せいぜい6時間が限界だ。だから余った労働時間を清掃の仕事で埋めている。清掃の仕事は、自律走行ロボットが取りこぼした荷物を拾って台座に乗せなおすとか、隙間に落ちた紙屑を集めて捨てるとか、そういう単調なことだ。しかも、AMRは人間よりよほど正確だから、清掃員の出番はそう多くない。午前中に頭を働かせ、午後は身体を働かせ、私はこの習慣を気に入っている。そして、だいたい22時に第一睡眠をとり、23時に起床する。そこから5時までの6時間が自由時間だ。昨晩は友人とギリシア料理を食べに行った。彼はサロンのことを羨ましがっていたな。そして、5時に1時間の第二睡眠をとり6時に起床、というわけだ。
私はこのサロンを十分に楽しむため、二つの職場にかけあって休暇を取得する必要があった。これから丸二日は本物の睡眠(ヒュプノスを使わない睡眠を私は密かにこう呼んでいる)を楽しむためだけに使うのだ。
さあ、“砂抜き”もそろそろ終わりにしよう。額のあたりがぼんやりと重たくなってきた。いい感じだ。あのドアの向こうには寝室がある。完璧な眠りがある。おやすみなさい。
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