今日のアウトプット 嫌いは嫌いでいい
カタツムリ。🐌
小雨が降って上がったころの今朝の新聞配達、
ポスト周りにたくさんカタツムリがいる家がありました。
そういう季節なのですね。🐌
私はこういう小さな生き物は好きで平気なので、子供に写真を撮ってきたのですが
好みは人それぞれですね。
「見せないで」とお断りされました。 ☺️
『ちゃんとNOが言えて断れるの、うれしいな。🪷』と。
自分が嫌なことを分かっている。
それが、私にはうれしいことです。
私は、それが上手く分からなくなっていたことで困っていたということなのですよね。
褒められたり肯定されるために、叱られたり否定されたりしないために、やせ我慢や我慢でいろいろやっていたな。
叱られたり、否定されたりの方法が度を超えて「怒る」の「脅威」を伴うからそうなるのだろうな。
子供の頃に、自分の母親に対して「注意と怒ると怒鳴るの違いが分からないのだなー」と思うようになったのは中学生くらいの頃かな。🤔たぶんですが。
5歳下の弟と母の間のやり取りを見ていてそう思っていました。
怒るターゲットにされている弟の横で、良い子をやっているお姉ちゃんだったな。
叱ると注意の加減が子供の運命の分かれ道ですね。
自分の感覚を否定する選択をさせるか、自分の感覚を否定しなくて良いままいられるか。
私は、自分の感覚を抑えたのですね。
(否定している状態でさらに注意を受けると、憤りが倍増するのだろうな。
ささいな指摘を、否定と捉える幅が広い上に、そこにこだわる心の反応にとらわれるのは、きっとそんな仕組みかな。)
食べ物は何でも食べたり(🤔私の味覚音痴の原因もしかしてそこかな?😄🫧)、楽しかった遊び方を我慢したり。
着たい服より、与えられる男の子の服や婦人服を着たり。
しまいには、何を話したら否定されないのか分からなくなって、話す言葉選びを決められなくなったり。
(ちょっと脱線 : 危機的に話せなくなっていた大学1年生のはじめのころ、意外なことに英会話教室に通ったことで毎回の教材の短い会話の例文から「会話」のリハビリができました。
英会話教室の知られざる効能だと思います。今はなきジオスに行っていました。🪷
同様に発音のしくみについても、大学のときに半年だけ取った韓国語入門の授業で教わったことや、英語のフォニックスがリハビリになりました。
外国語学習の意外な効能だと思います。
AIが翻訳してくれるようになったあとも、その効能は役に立つまま残るかな🫧)
そうこうしていて、自分が嫌なことの選別の感覚も、断る方法も、伸びていなかったのですよね。
その必要性も知っていなかったです。☺️
今、知っていられるのはありがたいな。
🫧
自分の子育ての中で、タイミング的に間に合っているから。🫧
🪷
と書いていたら、虫が嫌いな子供はベランダに蜘蛛の巣を見つけて、移動のお願いに挑んでいました。😄🪷
嫌いと分かって認めていれば、嫌いなものを避けることへ、進めるのですね。
嫌いを我慢することを受け入れていると、嫌いなことや、中身を示されないことを、自分で選んだようにコントロールされながら強要されることへ進んでしまうのですね。
嫌いなのか好きなのか分からないまま。
🪷
そして、コントロールが叶わなかったときには、「迷惑」という苦情を集めたり、「知的障害者とか精神疾患」と扱われたりすることで、次のコントロールの段階(本人の意思を考慮しなくて良い中でのコントロール)へ行くのですね。
そういう苦情、集めました。😌
🪷
そこから私に代わって反論してくれた人に食ってかかり続けた私は、方向音痴ですね。
そう見えていてる、最初からの企画者なのかな。途中からなのかな。
🪷
どこからどこまでが誰の意図か分かっていなかったし今も推測、自責はしないですが、認識はしてみます。
🤔これって良い子なのかな???
ループしている?🫧🤔
なんだか私はそう思う。
私自身は嫌いを嫌いのまま感覚的にキープしていないのかな。
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