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ADHDと診断されて

適応障害からの再出発

初めての投稿となる。私は、アラフィフの中年オヤジだ。昨年6月に適応障害を発症し、当時勤めていた会社を退職。その後就労移行支援事業所に8か月通い、苦労の末になんとか再就職を果たした。現在は、入社してまだ2か月の新人である。適応障害を発症して以来、定期的に通院している心療内科で、今日初めて医師から告げられた言葉が、「おそらくADHDでしょう」だった。その言葉を聞いて、私は今までの人生の辛かったこと、自己否定の気持ちが一気に和らぎ、つかえていたものが消えてホッとした気持ちになった。

仕事のミスを繰り返し、人間関係が悪化し転職を繰り返していた

今でこそ、ADHDという特性が世間でよく聞く病名となり、書店にはADHDに関する書籍が並ぶ時代となったが、昭和生まれの私にとって、10代、20代、30代前半までの人生は、自分の仕事でたびたびミスをする無能さに打ちひしがれるしかなかった。当時は、そんな先天的な特性が、自分の能力に左右しているとは一ミリも思わなかった。そして、仕事を行う上での自分の劣っている能力に対し、あえて向き合わずに自分をだましだまし何とか過ごしてきた感があった。しかし、気づけば職場の人間関係はいつも悪化し、転職を繰り返す人生を送ってきた。

自分の特性と共通点が多いADHDを意識し始めた

15年ほど前だろうか?報道番組で「ADHD」について取り上げるニュースを見て、初めてその存在を知った。そして、理解力がない、ケアレスミスが多い、マルチタスクが苦手、頭の中で音楽が流れている、アイデアがたくさん思いつく、などの特徴を知り、自分に当てはまる要素が多いことから、もしかしたら自分も該当するのではないか?と思うようになった。しかし、不思議なもので、35歳を過ぎた頃から、次第にケアレスミスは減っていき、いつもざわついていた私の心はだんだんと穏やかになり、40を過ぎたころにはADHDの特性といわれるものがあまり気にならなくなっていた。そして、そんな自分はいつしか、自分の苦手な特性があることを忘れ、挑戦的な転職活動へ目を向けていくことになる。

失敗を繰り返すにつれ、自信を失っていき、適応障害を発症

しかし、挑戦的な転職の結果、仕事での成功体験よりも、失敗による劣等感や自己肯定感の低さはどんどん増していく。業務過多になったり、ピンチな状況に追い込まれると、若かったころに起きていたADHDの特性が頻発していたのだ。やがて、自分の人生を振り返り、自分自身が嫌になり、適応障害を発症する。当時、心療内科の医師に、「自分はADHDではないのか?」と尋ねたが、幼少期の行動歴などの質問を受けた結果、ADHDではない、と診断されたのだった。

支援員として働き始め、ADHDを再び意識し始める

私は今、就労移行支援、自立訓練の事業所で支援員として働いている。適応障害を患った後、就労移行支援事業所に8か月通所し、当時の支援員の姿を見て自分もこんな仕事がしたい、と思ったことがきっかけだった。自分の病名を隠して就職活動を行う「クローズ就労」という選択をし、就労移行支援事業所を30社以上応募し、現在の就職に辿り着いた。そして今、支援員として精神疾患を抱える利用者と接する中で、再び自分はADHDではないのか?という疑問を抱くようになった。理由は二つある。一つ目は、新しい仕事を覚えるうえで、理解力のなさ、覚えるスピードの遅さ、ケアレスミスの多さといったADHDの特性が自分にあることを再認識したこと。二つ目は、ADHDから併発して鬱になった利用者の行動パターンや特性を見て、自分と類似する点が多いと感じたこと、だった。そして再びかかりつけの医師に相談し、幼少期の事例などを具体的に話し、今回の診断結果に至る。

自分の特性を理解し、今後の生き方をプラスに変えていく

ADHDと分かったからといって、何かが解決するのだろうか?以前はそう考えていた。しかし、適応障害を乗り越え、就労移行支援事業所で様々なことを学んだことで、今の自分にはADHDと向き合い、自分を肯定する力に変えられる術を身に着けたと感じている。ADHDを免罪符のように扱い、「ADHDなので自分はこの業務はできない」と周囲にアピールするのではなく、自分にはADHDという特性があり、それも含めて自分なのだ、と自己受容することが今の自分にはできる。そして、ADHDのマイナスの特性を補う対策や準備をし、プラスの特性をどのように活かすか?という考えを働かせることで、自分自身の成長につなげていくことができる。今回、自分にはADHDの特性を持っていたのだ、と認識できることで、今後の人生を前向きに生きることができる、と感じ、一気に自分の抱えていた過去の重荷がふと軽くなった喜びに充実感を感じている。





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