ティータイム【3分小説】
仕事に出る前の朝のティータイムを、夫は大事にしている。
毎朝仕事に出かける二時間前に起き出して、しっかりと朝食を摂ったあと、いつでも出られるように着替えをし、髪を整え、鞄に必要な物を入れる。すべての準備が整ったところでティータイムは始まるのだ。
夫はティータイムにたっぷり三十分の時間をかける。時間にゆとりを持てない人生を過ごしたくはない、この三十分を作れるか作れないかで心が豊かになれるかどうかが決まる、そんな信条があった。お茶をこよなく愛し、お茶を嗜む時間に心の豊かさを見出す夫を、わたしは尊敬し多大な影響を受けた。
夫にお茶を飲む習慣があるのを知ったのは、まだ結婚する前の恋人時代に夫の家を訪ねたときだった。外出先でするお茶はコーヒーショップと決まっていたので、夫の家にこだわりの茶器が揃っていたのは意外であった。お茶の種類に応じた急須がいくつか並び、湯呑もさまざまな形状や柄、素材のものが食器棚を埋めていた。
寝泊まりをした翌朝に、二人分の湯呑を用意して注いでくれた緑茶は芳醇で、甘みと渋みのバランスがよく、こんなにも美味しくなるものなのかと目を丸くしたものだった。佐賀県出身のわたしは、お茶の名産地である嬉野が隣にあるにも関わらず、そのような知識を持ち合わせておらず、「そんなのもったいないよ」とたしなめられた。
夫と同棲をするようになってからは自然と夫の習慣に合わせた生活になり、二人でティータイムをしてから仕事に出るようになった。この時間はわたしにとっても大切なものとなり、心が健やかになるのを実感したのだった。
きょう夫が持ち出したのは嬉野特産蒸し製玉緑茶に、肥前吉田焼の急須と湯呑である。クッキング温度計とタイマーもリビングテーブルに置いて、南部鉄器の鉄瓶で沸かした湯をキッチンから持ってくると、まず湯呑にお湯を注いだ。急須に茶葉を入れ、湯呑の温度をクッキング温度計で計り、頃合いを見て湯呑のお湯を急須に移して、タイマーを設定するという完全無欠の徹底ぶりである。
用意してある湯呑の数は夫の物ひとつだけである。
わたしはダイニングテーブルで五歳の娘と二歳の息子の朝ごはんの面倒をみている。娘はお腹が空いていないとぐずってなかなか食べようとしない。食べさせないと昼までもたないので、苛立ちを抑えながらなるべく優しい口調でなんとか食べ進めさせる。その間にも息子は、食べ物がうまく取れなかったり食器を取り落としたりするので目が離せない。さらに追い打ちをかけるように、娘が便をもよおして漏れると言い始め、慌てて一緒にトイレに向かうと同時に、息子がジュースのグラスを倒してテーブルにこぼしてしまった。
そのタイミングで夫の設定したタイマーが鳴り、「よし」と夫は呟いた。ダイニングテーブルで起きていることなど、まるで目に入っていないかのように悠然とした仕草で急須のふたを開けて茶のでかたを確認し、ゆっくりと清らかな音をたてて湯呑に注いだ。
この「よし」という呟きと清らかな音は、わたしの神経を逆なでした。「よし」ではない。「よし」なんて言えるようなことはこの場では何も起きていない。
「ちょっと、こっちもやってよ!」
思わず声を荒げると、夫は「はーい、ちょっと待ってね」とのんびりした返事で立ち上がり、キッチンから布巾を取り出すと、テーブルの上にこぼしたジュースを拭き取り始めた。
「ママが大変だから、こんなことしちゃダーメ」
夫は息子に優しく言うと、テーブルの上からこぼれ落ちた床までしっかりと拭き取り、そのまま洗わずに布巾をキッチンに置いて、またリビングテーブルへと戻って行った。
ちがう。そうではないだろ。根本的な間違いになぜ気付かない。
いつか話したママ友との会話が思い起こされた。
彼女の旦那さんは、共働きであることをきちんと理解して家事・育児を臨機応変に分担しているという。家庭のことに関心を持ち、家族という共同体が幸せになる方法を模索して、コミュニケーションをしっかり取っているようで羨ましく思ったものだった。
一方うちの夫の方はと言うと、家事・育児に無関心と言うわけでもないのだが、子供に手が掛かり自分の準備もしなければいけない、慌ただしいこの朝の時間に、超然とティータイムを貫いている。
湯呑をすすり、おもむろに新聞を開いて記事に目を通しながら、ゆとりのある「夫のティータイム」は過ぎていく。
健やかな心を享受し合ったティータイム。それは大切に違いないが、今ではない。もうとっくに恋人の時代は終わり、家族の時代を迎えているのだ。夫がゆとりを持てば持つほど、わたしは苛立ちが募る。滔々と滾る怒りは沸騰した湯のようであり、ママ友の旦那さんの爪の垢を煎じて飲ませてやりたいと、心の底から思うのである。