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ゲームに夢中な子供も大歓迎ーサドベリースクールのスタッフから学ぶことー

この記事は、前回の記事の続きとなっています。ぜひ合わせてご覧ください。今回の記事では、ゲームばかりしている子供たちが学んでいることは一体何なのか、ということについてスタッフの方にお聞きしたことを書いていきます。

①ゲームと聞くと、どんなイメージをもちますか?

私はゲームに夢中の兄がいつも母親に怒られているところを見て育ったということもあり、ゲームに対するイメージがかなりよくありませんでした。そして、私自身がゲームや漫画といった娯楽をあまりに嗜んでこなかったので、夢中になる子供たちの気持ちがいまいちわからないというのが本音です。
しかしながら、スクールで時間を気にせずゲームをしている子供たちを止めるスタッフは1人としていません。理由は簡単、ゲームに夢中の子供達にも学んでいる大切なことがあるから、だそうです。

②ゲームを通して友達とつながろうとする子供たち

ゲームに夢中になる子供達の中には、複数人で対戦したり、チームを組んで戦ったりしている様子を見ます。これらの子供たちは、ゲームという手段によって、友達とコミュニケーションをしたり、自分以外の外の世界と接地点をもとうとしたりしているようです。これは、自分の殻に閉じこもらずにゲームという媒介を通して誰かと繋がりたい、という人間本来の自然な欲求の現れとして受け取ることができます。
休み時間に鬼ごっこをしたり、かくれんぼをしたりして一緒に遊んでくれる先生のことを子供達が無性に好きになるのと似ていて、一緒に楽しい時間を共有してくれる友達に信頼を寄せ、人間関係を作っていこうとする、とても健全な感情の芽生えとも言えます。

③何かにのめり込むという経験の尊さ

はたまた1人で何かにめり込む経験には、計り知れない価値があるとスタッフの方は言います。それがゲームであっても同然だそうです。
お金になるかどうか、将来役に立つかどうか、という狭い価値基準を超えて、好きで仕方がないものに出会う、またそれに時間を忘れてどっぷり取り組むことには、とてつもないエネルギーと集中力が必要だというのです。嫌いなことに取り組んでいる時は、エネルギーの消費量がものすごいものに感じるし、それゆえに疲労感が溜まります。でも、好きなことをしている時、人はそれを「頑張っている」という意識など微塵もないのに、何時間でも、寝ないでもやってらいられたりする。だから、好きということほど強いものはないんですよね。このことが後に、ゲームでも、ゲーム以外のことでも、「これだ」と思うものに出会えたときに、大きな力となって自分を支えてくれるということをスタッフの方が語ってくださいました。

④夢中になれるものと出会うためにこそ必要不可欠な“自由“

何かにのめり込むという経験は、その人の生き甲斐となり、何にも変え難いものになるはずです。そしてそれを将来の自分の仕事にすることができたら幸せもきっと大きいだろうと思います。
言わずもがなとてつもなく大きい価値のある「夢中になれるもの」に誰もが出会うには、それ相応の自由がどうしても必要不可欠になってくる、とスタッフの方は言います。自分の興味の赴くままにとりあえず何でもやってみる、ということが可能な環境が必要になってくるのです。
そこで、サドベリーは自分が真に興味のあることに辿り着けるよう、子供たちに最大限の自由を保障しているというわけです。それゆえに授業をやめ、校則もやめ、行事もやめたということなのです。

⑤自由を与えられると人は一気に自立する

何も知らない子供たちに、いきなりそのような大きな自由を与えて良いのか、サドベリースクールの存在を知ったばかりの時の私はそんな懐疑的な思いに駆られていました。でも、人は自由を与えられると一気に自立する生き物なのかもしれないとサドベリーの子供達を見ていると思うようになりました。

公立の小学校教員として働いていた時は、何をするにしても担任の指示がなければ子供たちは動いてはいけない、自分で頭を使って行動してはいけない、というように教えなければなりませんでした。
子供たちの口癖は「先生、次はどうするの?」でした。こちらが逐一指示を出さないと何もしない子供たちに唖然としたのを覚えています。でもそれは、子供たちが悪いのでは決してなく、子供達から「頭で考えてやってみる機会」と「やってみて失敗する機会」を同時に奪ってしまった教師側の責任だったと今かなり胸が痛みます。そしてまた、私自身もそういう教育を受けて育った人間なので、「自分で考えてやってみる」ということが私にとっては未だに勇気のいる行動です。多分、小さいものから大きいものまで含めた失敗経験が乏しいために、失敗への怖さが拭い切れないからです。

サドベリーの子供達を見ていると、子供に自由を与え、彼らを囲う枠組みを極力減らし、広い世界に彼らを送り出すことで、子供たちの視野は外へ、外へと開けていき、各々が自分に必要だと思うことを自ら取りにいける環境がいかに素晴らしいか、気づかされます。危ないものから隔離されていない分、傷ついたり、間違ったり、何かを失ったりする経験は多いと思います。
それでも、人は痛みを覚えた時に一番学ぶ必要性を実感するし、そこで学ぶからこそ自立する、ということを考えた時、子供たちは、失敗さえも一つの通過点として乗り越えていけるのだと思います。

まとめ

子供たちは、ゲームに熱中する過程で様々なことを学んでいるというサドベリースクールのスタッフの方の考え方をまとめてきました。ここまで記事に書いてみても、私はまだゲームに熱中する子供を心から肯定的に見守ることができる自信が正直ありません。しかし、スタッフの方は最後にこんな言葉をつぶやかれました。
「今の時代、大人がゲームを否定しているようではいけない」
私はこの言葉が示唆する意味を考えてみたいと思い、次回の記事では、「今の時代、大人がゲームを否定しているようではいけない理由」について書いてみたいと思います。

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