適応障害体験記②〜生きながら死んでいた日々〜
この記事は、前回の記事『パワハラに遭い、適応障害の診断が下りるまでの体験記』の続きです。ぜひ読んでいただけると嬉しいです。
精神科の先生とのやりとり
私は、幸い心を許してなんでも話したいと思える精神科の先生にありつくことができ、そこで「今すぐ学校を休みましょう」と言っていただき、適応障害の診断書を書いてもらいました。
パワハラによってどんなことをされたのか、その先生は具体的なお話を最後までじっくりと聞いてくださいました。その傾聴の姿勢があまりにも温かかったことから今まで蓋をしていた負の感情が一気に溢れ出しました。先生の前で、涙が止まりませんでした。
診断書をもらってすぐに
診断書をもらって、ようやく「私は休んでもいいくらい辛いんだ」と自覚でき、病院を出たその足で診断書を勤務校に持って行きました。
持っていったと言っても、もうその時の私は学校のエリアに足を入れることさえできないような精神状態だったので、親に持っていってもらいました。
その時、校長先生からは「もう社会人なんだから、自分で持ってきなさい」的なことを人づてに聞きましたが、今思うとそんな常識的なこともできないくらい弱り切っていました。親に持っていってもらって本当に良かったと思っています。
休み方が分からない・・・
診断書を学校に提出して、それまでの生活とはいっぺん、急に何の縛りもない生活が始まりました。
あれほど休みたいと思っていたのに、いざどれだけでも休める状況になると休み方がわかりませんでした。
寝ようとしても、パワハラ上司の言動が頭にこびりついて寝られないし、食欲も湧かない。以前は楽しいと思えたこともその時はもうどうでも良くなっていました。
こうして、私の療養生活が始まりました。
適応障害真っ只中の私の思考
私の療養生活は、多分人生で一番辛い時間でした。
休むどころか、頭の中で考えなくてもいいようなことを永遠と考え始めました。
「私がこうして休んでいる今も、学校は目まぐるしく動いていて私はどれだけ迷惑をかけているんだろう」
「子供たちは、いきなり学校を休んだ先生のことをどう思っているんだろう」
「私が弱いから、パワハラにやられてしまったんじゃないか」
「本当は、パワハラに耐えてもう少し頑張れたんじゃないか」
「私は、本当に休むに値するほど頑張ったんだろうか」
こんなことを24時間考え続けました。自責の念が止まりませんでした。
社会人になって3ヶ月で社会からドロップアウトした自分は価値のない人間だと思うことしかできませんでした。
幻聴、幻覚、深夜覚醒、不眠、全ての不調が襲ってきた
心と身体は間違いなくつながっていると確信したのはこの経験からでした。
ありとあらゆる不調が一気に降りかかってきました。
夜になって外が暗くなると、決まって幻聴、幻覚が始まりました。
一番思い出したくない上司の声や顔が、本人がそこにいると錯覚してしまうほどリアルに感じました。
窓から、人の手がどんどんと叩いてくるように見えました。
そうして暗闇が本当にダメになって、一睡もできなくなりました。
食べるものなどもうどうでもよくて、自分のために食べ物を買うことすら申し訳ないと思うようになりました。
一人暮らしをしていたので、家事を全くできなくなった私の家はぐちゃぐちゃ状態でした。
この頃には、人に会うことは完全にできなくなりました。
家に一生引きこもっていました。自己肯定感が完全に失われていました。
ここまで落ちた私でしたが、この後復職に向かって動き出しました。次の記事では、ここから私がどうやって心を回復していったのかについて書いてみます。
ここまで読んでくださりありがとうございました。