何にも情熱が持てない私「何でもいいでもいいんじゃない?」
いつからかわからんけど、どうしても(?)(←ここに今は疑問符ついてる)海外の大学院に行きたかった。
年単位で計画して、通過点としての交換留学が叶って、オーキャン行って、出願準備して、IELTSもGREも受けて、あとは「志願理由書だけ〜♪」ってとこまで来てた。なのに急に。
志願理由・研究計画・卒業後の社会貢献…考えれば考えるほど、今までがむしゃらに突っ走ってきたツケが回ってきたように、なーーんにも出て来なかった。
常に自分を外側から見ているような感覚があったのに、気づかないふりして「理想の自分」になりきろうと必死だった。
気づいた頃には、ちゃんと向き合ってこなかった自分の心が空っぽだった。
だけどそこから、空っぽな心をまずは受け止めて、もう1度、丁寧に丁寧に、自分の心を満たすことに専念した。
友だちにいきなり泣きながら電話したり(まじで急にごめんやった)、本読んでみたり、映画見てみたり、note読み漁ってみたり。
「こんなにやること山積みやのに、自分はいったい何してるんや!!」と、いつものとりあえず突っ走り衝動に負けそうになったけど、今回だけは負けなかった。
私のいわゆる“病み期”に付き合ってくれて、色んな視点を吹き込んでくれた友だちに本当に感謝します。ありがとう。
憧れの職業って何なんだ
世界には、“解決すべき“だと言われる問題が無限にある。そしてその問題解決に人生賭けて立ち向かっている人たちがいる。
そんな人たちを見て、「素晴らしい」と思う。
私も「そんな風になりたい」と思う。
人道支援、環境保全活動、お医者さん…
自分以外の何かのために必死になって立ち向かっている姿は美しく、尊く、憧れの的になる。まるで映画のヒーローのような彼らを見て、「見習わなきゃ」と思う。
また世界には、未解明の謎が無限にある。そしてその未解決問題をなんとかして自分が生きているうちに解いてやろうって研究者たちがいる。
そんな人たちを見て、「天才だ」と思う。
私は「そんなに情熱的にはなれない」と思う。
何かに没頭している姿は、まるで何かに囚われたようにも見える。
またまた世界には、自分の好きなこと、夢を追いかけて努力し続けてる人がいる。
アスリート、ミュージシャン、画家…
そんな人たちの“成功”を見て、感動して涙を流す。
「やっぱり努力は裏切らない」と自分自身に言い聞かせる。
人助けする人、解き明かす人、感動を与える人。
私的、憧れられがちな人々を、すんごく極端に分類してみた。
この「どれか」に分類できる職業は、ほんの一握りで、ほとんどは「どれでもない」と思う。
これら全てに共通するのは、「すごい情熱」で何かをしてるってとこ。
私から見た、その人たちは、みんなあたかも自分のことはなりふり構わず「何かを成し遂げたい」という情熱に突き動かされているように見えた。
すごい人って何なんだ
結局は「すごい人」も「すごくない人」も同じ人間社会で生きている人間なんだよなー。
全てのインセンティブの根底(=「何かやりたい」の始まり)には「自分もああなりたい」が(少なくとも昔は)あったと思うんだよなー。
例えその“憧れの人“が「俺は音楽を作るために生まれてきたんだ」とか「人助けが私の使命です」とか「宇宙の起源を解明してやる!」とかまるで自分は元からそんな人であるかのように語ろうが、が、オギャーオギャー言うて産まれてきて、首座って、しゃべった第一声がそれな訳ない。
そんな赤ちゃんおったら出てきてほしい。
彼らのインセンティブが、いくら純粋でそのことだけに向いているように見えたとしても、人間社会に産み出された以上「社会的な評価」という不純にも聞こえる価値基準が小さい頃からどこかに深く刷り込まれている。
無人島で育った赤ちゃん(言葉の矛盾)が二十歳になった時、そんな夢を語るだろうか?
めーちゃめちゃ偏った見方なこと承知で言う。
まるで「理想像」をキャラ設定された数少ないレアキャラ同士が、それらのプログラムに沿って動いてるような。
私は今まで21年間「自分はそのレアキャラだ!」って自分自身に言い聞かせて生きてきた。
だけど今、魂が「本当にそうなのか?」と言って言い止まなかった。
やっと気がついた。
それでも体は、慣性で何とか頑張ろうとしてた。
今までの私なら、その魂の疑問に耳を塞いで、「気のせいだ」って言い聞かせてとりあえず走ってジム行っていっぱい食べて寝たら忘れてた。
だけど今回は違った。
幸だか不幸だか、私のコードは最後まで書き切られてなくって、やっと20年以上縛られてきた「理想像」から心が解放された。
そんな考えにまで到達した時、今までずっと抱いてきた「すごい人にならねば」プレッシャーがストンと落ちた。
「すごい人」奨励材料
あからさまな衝撃的きっかけがあって、「何かやりたい」「私がやらねば」って使命感を抱くようになった人々ももちろんいると思う。
近しい人の死、テロ、交通事故、等。
しかし「何かやりたい」のインセンティブには衝撃的出来事が存在する前提なのはおかしくないか?奨学金の応募書類とか。
これらの評価基準が、そういったきっかけ持ちの人々を崇高する世の風潮を醸成しているだけなのではないか????
実は、
私みたいに、奨学金の書類書くために考えた後付けのきっかけであたかもそんなきっかけに駆動されて今やりたいことがあります感出してる人々も実はめちゃめちゃおると思う。
そんなフリして、とりあえずそんな感じのこと書きまくってうちに、そうかのような気がしてきてた。
だけど、どれだけ必死に勉強しても、全然、生涯かけて「これをやりたい」とは1ミリも思えなかった。
私はいつも、勝てない側だ。
結局は「自分なんか才能なかったんや」って、心のどこかに常にあった。
何でもいいでもいい
そしてここ最近辿り着いた結論は、何かに執着しないゆるさが自分の良さでもあるんじゃないかってこと。
今まで、広く浅く色んなことやってみて、大体みんなより先にやめてきた。
やってるうちは、何事もめちゃくちゃ頑張るし(そもそも、ほんとにすごい人は自分でそんなこと言わないよね)そこそこ良いとこまでは行ける。
だけど心のどこかで、何か1つに自分の全てを賭けるのが怖かった。
そんな自分は、常に「あーやっぱあの人には勝てないなー」が全てのフィールドに存在しきて、どれだけ頑張っても「1番」はいつも誰かのものだった。
そして、「あーやっぱ私そこまで才能ないし向いてないんやわー」ってある種の諦めで色んなことに手出しては「やっぱ違う」繰り返してきた。
それは反対に、「何がやりたい」がないってことで、自分自身を縛るものがなく自由に好き勝手生きられるって捉え方もできるんじゃないか、って。最近考えるようになった。
そそくさ逃げ道作りまくって、ある程度まで行って行き詰まったらパッて方向転換して。別にそれでもいいと思う。
何を勉強しようが、何を収入源にしようが、そんなこと正直どうでもよくって「何がしたい」もそもそも無くって。
そこまで考えた今、大学院に落ちたら、落ちてから考えたらいいし、受かったとしてもおもんなかったら辞めればいい。
これが私のいいとこなのかもねー
がむしゃらに頑張らない方がいい
「何でもいい」私にとって、結局は、どの道を選んだ/どの道に行かされたにせよ、どう自分が解釈してその道で生きていくのか、だと思う。
それは「その後の頑張り」もそうだけど、別に頑張らなくたっていい。
それよりも、「自分の解釈」。
自分で自分の今いる道を納得させるために「頑張ってみる」ことはもちろん価値があると思う。
しかし、深く考えもせずがむしゃらに目の前のことを苦しみながら頑張ることに何の意味があるのだろう。
後々「あの時頑張ってよかった」というのはよく聞く話だが、それは結果論であり、たまたまその頑張りがうまく当たった人が話しているだけ。
そして、がむしゃらに頑張ったけどうまくいかなかった(=自分を納得させられる結果が得られなかった)人の話は、世に出ることもなく、どこかにひっそり消えていく。
そもそも「うまくいった」とか「うまくいかなかった」もすごく主観的な概念であって、今となって思うのは、試合に負けて悔しくて辛くて泣き叫んだ夜も含めてただただ良い思い出だったなーってこと。
時間経てば、都合良く解釈して、それで、私はいい。
まとめると:
と、いうのが最近の自分の中に備わった新たな価値観。
人生に目標は必要なのか
何かを達成することを目標にして生きることの弊害は、達成できても達成できなくても、その後にどこか満たされない心が残ることだ。
数ヶ月、数年、数十年先を見据えて今何すべきか計算して生きることが、「今」というもう2度と来ない時間の犠牲の上で成り立ってはいないか?
人生は1度しかない。
そのかけがえの無い人生のうちに、多くとも片手で数えられるだけの「何か」に囚われて、残りのほとんどを惰性で消費して使い切るのは如何なものか。
そう思うのは、自分自身がそのような生き方を繰り返してきたから。
計画して計算して、それが悪いことだったとは全く思わない。だけど、息苦しい。
そうしなくても、気がついたら前に進んでるもんなのかもね。
まだわかんないけど。
何をモチベに生きていくのか
今は、今を生きている。
私はただ、水が美味しくて、ほどよく暖かくて、せっかく他の言葉覚え始めて、仲良くなった友達もいるんだから、もう少し長くいたい。挑戦したい。
だから、こっちの大学院に出願する。
それでいい。
しいて言うなら、今の私のやりたいことは「パリでのインスパイアが消えて無くなっちゃう前に絵描くこと」「ほくほくトロトロのカボチャの煮物作ること」「激安チャリの限界試すこと」くらいかな。
全部やる。
この長い長い考察からわかったこと:
結局人間はどこにいても何をしてても人間であることに変わりはないってこと。
自己中心的で承認欲求の塊だ、と自覚した私の心も、やっぱり自分がすごいって言ってもらえるだけじゃなくて、人に喜んでもらったら嬉しいし、地球に“良い”ことしてる気分の時は、すごく嬉しい。
“ピュア“な環境保全とか動物愛護とかそんな「綺麗な心」の持ち主ではないけれど、インセンティブが何であれ、ちょっとでも前よりいい世界(笑顔の人が多い地球)になったら、地球に住んでる私は嬉しい。(左)
驚くべき研究成果でもアートでもコメディでも、私のやったおもろいことで、誰かが「おもろい」って思ってくれたら私はすんごく嬉しいし、そんな世界は前よりちょっとおもろいんやと思う(もうちょっとクリエイティブな地球)。(右)
そんな思考まで到達した時、みんなじゃなくても、始めの例のような「すごい人」たちは、このくらいのニュートラルな心で何か物事に向き合っているのかもしれない、とも思った。
私の「やりたい」が「かぼちゃ」とか「激安オンボロチャリ」に向いてる時に、「地球温暖化」とか「太陽系の起源」に「やりたい」が向いてるその人たちは、やっぱりすごい人たちなのかもしれない。
すごいなぁ。
今の私は、「羨ましい、悔しい」じゃなくて、単純な「すごい」のレンズで周りを見られる気がする。それが第一歩なのかも。
こんなとこまで読み切った人がいたら、感じたこと、コメントでもDMでも教えてほしいです😊