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Library Life(=図書館ライフ)

 タイトルを横文字にして格好つけたい訳ではない。中学1年のとき、Library (図書館)という英単語に出会ってときめいたのを覚えている。schoolやstationに比べ、圧倒的にハイソでかっこいい。ライブラリーではなく、リブラリーが正しい発音だ。

図書館の本を秘書とする

「おめでとうございます。こちらで今年50冊目のご利用ですね」
 いつもの図書館で本を借りると、笑顔の素敵な司書さんが教えてくれた。読書マラソンを意識してはいないが、図書館にはよく行く。仕事で知りたいことがあったとき、暮らしのなかで課題を見つけたとき、私は躊躇なく図書館の蔵書に頼る。すべてが解決される訳ではないが、とりあえず真っ先に相談をする秘書のような存在だ。

 最近の貸し出し記録によると、NISA、投資術、相続税、庭木の選定、大学の学部選びなど、課題解決のための本が多い。このnoteも、アカウントを取得してから一年間は手つかずだった。取り組み方がイメージできなかったからなのだが、図書館の本から指南を受け、ようやく重い腰を上げて今に至る。図書館を利用しない手はない。使わないのはもったいない。

 仕事の面では『7つの習慣』などの自己啓発本から、『日本企業の勝算』、『ゼロからの資本論』などの話題のビジネス書、有名経営者の自伝本などを借りているようだ(貸出し記録による)。小説やエッセイは手当たり次第。原田ひ香、小川糸、宮本輝、夏川草介、城山三郎などがお気に入り。有名人が亡くなると、関連書籍を読んで哀悼の意を表する。

進化している現代の図書館

 最近の図書館はかなりいけている。ネット検索とネット予約ができるため、本を探して館内を彷徨うことがなくなった。連携した複数の図書館の蔵書からの取り寄せも可能。ひとつの図書館の蔵書では心もとないが、私の地元では八つの図書館が連携している。この広域連携システムのおかげで、蔵書数は数倍に跳ね上がる。予約をすると数日後には最寄りの図書館へ本が届き、メールでお知らせもしてくれる。もちろん、すべて無料。Amazonも真っ青のサービスぶりである。私のように知りたいことが顕在化しているユーザーには、打てば響くように解答(本)を提示してくれるのだ。

 誰かに借りられている本を予約することもできる。人気作家の話題作となれば予約待ちが必須だ。最近では東野圭吾の『クスノキの女神』(実業之日本社刊)が84人待ちで驚かされた。さすが押しも押されもしないベストセラー作家。八つの図書館に蔵書は17冊あったわけだが、その17冊がまさにフル稼働。一人2週間の貸し出し期間を経て、85番目の私のもとへ届くのに4カ月以上かかった。

 図書館の本の表紙はきれいにコーティングされている。これがまたいい。汚れにくいし、傷もつきにくい。自分の本だと雑な扱いをして傷つけてしまったときのショックは大きい。汚さないように気をつけすぎるとリラックスして読めない。図書館の本には帯がかけられていないが、表紙裏に上手に貼りつけられていたりする。図書館司書さんの心遣いと細かなテクニックに感服する。

本を読むか読まないか、それが問題だ

 図書館のおかげで作家や出版社が逃している利益はいったいどのくらいだろうか? 考えてみると背筋が凍る。以前は本は買うもので、本代をけちるのは社会人として残念なことだとすら思っていた。けれど、月に5冊も購入していると家計が揺らぐ。もう本棚もいっぱいだ。買う本を吟味するために思案する時間もばかにならないと気づいた。図書館で借りれば無料ただだし、本の選択に失敗したとしても痛手はほぼない。

 大学のゼミの教授が、本を読まない学生のことを嘆いていたっけ。「馬を水辺に連れていくことはできるが、水を飲ませることはできない」なんていう格言まで引用して。
 本を読まないのは必要がないからだ。読まない人を悪く言うつもりはないが、人生で大きな損をしているのは間違いない。

 私が本を読むようになったのは高校時代のことだ。親元を離れて下宿生活をしていた三年間、それはテレビのないひもじい生活だった。楽しみといったらラジオを聴くか、音楽を聴くか、本を読むことくらいだった。人間にはやはりエンタメが必要である。それを心底実感した。喉が渇けば、水を飲まずにはいられないのである。

 下宿の先輩が本好きだったこともあり、いろんな本を貸してくれた。北方健三のハードボイルドもの、椎名誠のお気楽もの、村上春樹の羊をめぐるなんちゃら。先輩の蔵書が切れると、近くの図書館へ通うことに。私のお気に入りは落合恵子。大人の恋愛を垣間見るうぶな青春時代でもあった。

旅の終わりは始まりでもあるはずだ

 東京で、10年ほど編集者生活をしていた。きっかけはこの図書館である。本棚に並んだたくさんの本の列を見つめながら、向こう側へ行くにはどうしたらいいのかと考えるようになった。読む側ではなく、作る側にである。

 進んだ大学は経済学部だった。貨幣価値のなんたるかとか、インフレがどうして起こるのかとか、そんなことを学問する学部だ。同級生は銀行員か商社マンを目指していたから、異端児だったと思う。一般学生が息抜きに選ぶ文章講座や文化記号論のゼミに全集中し、同級生の分まで読書感想文を書いてランチ代と交換するような学生だった。

 卒業して出版社に入ると、本は読むものではなく作るものに変わった。あの頃は、朝から晩まで活字を読む生活だった。夜中に目を閉じてからも瞼に活字の影がちらつく。浮かんだ活字に対して、無意識のうちに誤字脱字のチェックと文字統一をしている。本屋は敵地視察の場と化し、資料集め以外に本を買うこともなくなった。当然、図書館へ通うこともなかった。

 いま再び、学生時代と同じ空間で同じ景色を見ながら、ひとりの読者に戻ったことを実感している私。旅に出て、帰ってきただけということかもしれない。ただ、旅をしてきた後に日常が違って見えるのと同じように、今の私にしか見えない景色がそこに広がっている。

 私の最近のお気に入りは、ある小説家の日記を本にしたものだ。書名はあえてふせておく。私以外に借りる者はいないらしく、挟んだ栞がそのまま残されている。私はいつものようにまっすぐにその本棚へと向かい、本を取り出し、栞を抜き取って、いつものパイプ椅子に座って読む。読むのは1回につき2~3話(2~3日分の日記)と決めている。借りてきて自宅で読めばいいと思うかもしれないが、あえてそうしない。

 先日の日記では、表現者として常に前向きな彼が苦悩していた。
「曇天。時々、自分が不意に壊れそうになる時がある。・・・自分の頭の中に聳え立つ自分という塔が瓦解するイメージに揺さぶられ、思わず布団にしがみついた」と吐露する。翌日には書き溜めていた200頁にも渡る新作を葬ってしまう。そして、捨てることで得るものがある、と書いた。

 誰もがもがいている。誰もが探している。

 いつかこの本を開いたとき、栞のある頁が変わっていることを望んでいる。この本のよさがわかる人がどこかにいる。そんな楽しみ方もある、今の私の図書館ライフだ。


 

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