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ミヒャエル・エンデ 『モモ』 (絵本版)
僕にとっての本作:
エンデの名作、『モモ』のリメイク、オマージュ作。ムダ(?)をそぎおとした筋肉質な『モモ』。『モモ』の「聴く力」を焦点化した、大胆な作品。
名作『モモ 時間どろぼうとぬすまれた時間を人間にとりかえしてくれた女の子のふしぎな物語』のリメイク版。
訳は、松永美穂氏。絵は、シモーナ・チェッカレッリ氏。
原作は、ミヒャエル・エンデ(1929-1995)。
出版は1973年。日本語版は、1976年。
ミヒャエルエンデについては、以前、記事にしたことがありました。こちらはエンデの最初期の作品について。こちらは、エンデのインタビューについて。
昔の記事ですが、当時の僕にとっては、児童文学=エンデのような感じでした。
年代をみるかぎり、『モモ』の和訳は早かったんですね。児童文学のことを少し研究するようになるとわかるのですが、世界的に名作と言われるような本でも、和訳の出版までに相当なタイムラグがある作品も中にはあるようですが、エンデはすでに当時からビッグネームだったのでしょうね。
さて、こちらはその『モモ』のリメイク。賛否両論あっただろうことは、読んだ瞬間にわかる。アマゾンのレビューを見るまでもなく、わかる。
だいたんに攻めた本ですね。モモの一部分を切り取ったもの。今の僕には、目から鱗の作品でした。
時間泥棒との闘いなど、もう、カット、カット。
ただ、ぼくには響く部分がありました。
なぜか、それは僕がコーチング学習中の歴史教師(40才)だからだと思います。
本書は『モモ』のどこをクローズアップしたかというと、なんとそれはモモの聴く力。それは僕がいまこだわって身につけようとしている力、スキルじゃありませんか。ひびく、ひびく。
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…なるほどね、たしかにそうだったね。『モモ』は聴く力の象徴だったね。
古い劇場の遺跡に住まうモモ。なぜ街のみんなに頼りにされているのでしょうか?
モモがものすごく頭がよくて、どんな人にもいいアドバイスができたからでしょうか? だれかがなぐさめてほしいと思っているとき、いつも正しい言葉を見つけられたからでしょうか? かしこくて公平な判断ができたからでしょうか?
いいえ、モモはほかの子どもと同じで、そういったことはできませんでした。小さなモモがだれよりも得意だったのは、他の人の話を聞くことだけでした。ほんとうによく話を聞けるのは、ごくわずかな人だけです。モモは、この世でたった一人と言ってもいいくらいの聞き上手でした。
なるほど、そうだった、そうだった。
モモよ、あなたを師とあおぎたい。
クリス・マッキャンドレスと同じく、今日からあなたは僕の師です、モモさん。
児童文学は、リメイクされるものだと思います。
そのときどきの、人々の読み方に、応えていく。
時代に読まれていく、とも言えるかもしれません。
児童文学は、たとえば 古典 classic といえるほどに歴史を持たないものかもしれません。それでも、戦後や冷戦期を生き抜いてきた、現代人の愛読書は多いはず。
名著は、切り取られて、残る。
たとえば、シャハリヤールを知らなくても、アラジンを知っている人は多いではないか。『アラビアンナイト』は切り取られてなんぼではないか。
そう思うならば、名作の一部を切り取って、作家へのオマージュとするのもよいのではないか。
エンデやサトクリフ、あるいはピアス、ケストナー、ヤンソン、ヘッセ、モーパーゴ、リードバンクス。これらの作家は、これまでこの note でとりあげてきましたが、みな、切り取られて読み継がれていく可能性を持っているわけですね。あらためて、実感。
そう、近い感覚のものでいえば、ジャズのスタンダードが、いろんなミュージシャンに演奏され継承されていっていること、などでしょうか。
それに、有名な宮崎駿氏のお仕事は、そういうものだったのかもしれない。
ディズニーも。
そうか、ジブリもディズニーも、あれはジャズだったのか…
リメイク。
児童文学の名作を、作り替えて、時代への問いとして投げる。
OKなんじゃないでしょうか、と今回はこんなことを考えました。
エンデの『モモ』は、ジャズスタンダードなんだ…
ただ、ひとつ、知りたいことは(そのうち調べたいと思っています)、
「誰が、どういう意図で、このようなかたちで『モモ』を切り取ったのか」、ということでしょうか…それがどこかで説明されていれば、納得できた人もいるかもしれません。
訳者の松永美穂氏でしょうか? 絵のシモーナ・チェッカレッリ氏でしょうか?
出版社の光文社さんでしょうか?
たぶん調べれば議論がでてくるでしょう。
だれの意図なのかはわからないのですが、今、世の中に聞く力が求められていると考えている人の思いが、このリメイクを生んだ、のだろうと思いました。そういう議論を読みたいのです。
何が、『モモ』をこういう形につくりかえたのか。