猿若祭 二月大歌舞伎 昼の部『籠釣瓶花街酔醒』
さすが中村屋。 『籠釣瓶花街酔醒』
中村屋兄弟の、次郎左衛門と八ツ橋。
どちらも本当に良かった。
仲之町見初の場は、先に七越(芝のぶ)が上手から出て舞台を通ってゆき、次に九重(児太郎)が花道から出て通ってゆく。
七之助の八ツ橋は、最後に登場する。
登場した瞬間から、視線は釘付け。
先の2人と明らかに違う、スコーーーーンと突き抜けた、清々しいほど桁違いのオーラ。
これは確かに、疑いもない、吉原仲之町を背負う、巷で評判の八ツ橋。
佐野次郎左衛門(勘九郎)も、魂を持ってかれて当たり前。
花道での微笑みも、これまで観た八ツ橋とまた少し感じ方が違って、面白かったぁ!
ふっと次郎左衛門に気づく。
それまでのツンとした絵姿みたいな顔に、じわじわと朱が差して生身になるようなわずかな微笑の広がりがきて。
そうやって次郎左衛門に視線をくれたまま、次は悪戯っぽく流し目で笑うのがあって。
最後に、吉原仲之町に聞こえた花魁八ツ橋とはわたしのことだ、と風格を見せつけるかのような、堂々とした笑みで顔を上げる。
溶けるように笑みは消えて、もとのツンとした姿に戻ると、ゆっくりと歩いていく。
八ツ橋の笑みを食らった次郎左衛門も、ここを堺に何かが変わった感じが、とても良かった。
わたしが感じた、八ツ橋の笑みの衝撃度合いを説明しようと試みるならば…
例えば、絶世の美を描いた美人画と人間は、どう頑張っても現世では添えない。
分かっちゃいるけど、視線は吸いつけられるようで、見つめていると、ふっと絵の中から、その美人が生身を持って浮き出してくる。そりゃもうアッとなる。
しかもそれがこっちを向いて、びっくりした?みたいに悪戯っぽくチャーミングに笑って、スッと視線を外して、さあこれが吉原仲之町に聞こえた八ツ橋だ、と堂々たる笑みを残して歩き去っていく。
えっ。いまのなに? 生きてた? 動いた? こっち見た!?
世界の見え方が変わる。
勘違いすると言ったら悲しすぎるけど、彼女が生身であるのなら、これはひょっとしたら何か近づきようがあるんじゃないか?という思いが頭をよぎる。その思いは、取り憑かれたように頭から離れなくなる。
…そんな感じ。
勘九郎の次郎左衛門は、宿へ帰るのが嫌になった、と言って、何か目つきがぎらりと変わったような顔で、八ツ橋の去った方を腕組みして見つめる。
その顔は、単に物凄く美しいものを見た、見惚れた、というだけではなかったようにわたしは感じて、それが新鮮で面白かった。
仁左衛門の栄之丞が、信じられないほどの若々しさ、美しさ。
次郎左衛門の身請けを断るか、自分と交わした起請文を返すかと栄之丞に迫られる八ツ橋。
ここは、激しく動揺する八ツ橋を見て、ああ彼女は、栄之丞がいたから、この勤めをしていられたんだと感じる場面だった。
次郎左衛門との縁切り場は、何度見ても次郎左衛門の気持ちになるとしんどい。
八ツ橋のつらさも分かるから、二重にしんどい。
治六(橋之助)が、とても良かった。主人を思う気持ちが爆発的な力を持って広がって、涙を誘った。
勘九郎の次郎左衛門。
縁切り場での切なさは、記憶にある勘三郎よりも良かった。
それはわたしが勘九郎に感じる、人をほっこりさせる雰囲気が、どこか次郎左衛門に重なるからかもしれない。
八ツ橋との出会いの場から比べたら、ぐっと身なりもオシャレになって通なお客人になったが、それでも次郎左衛門は、みんなに気を使う、いいやつなのだ。
最後に籠釣瓶で八ツ橋を斬るところ、鞘から抜いたら妖刀が先に動く様子を仕草で見せた。
ここは八ツ橋も上手にタイミングを合わせて、あっという間のひと太刀を間合いよく決めていた。
「籠釣瓶はァ…」の名台詞、表情を見て驚いた。
一瞬、勘三郎かと思った。
そのくらい似ていた。
狂気はあるが、完全に我を失っているのとは違うように見える。
これよりあとの場面は今回も上演されない。
しかし話の上では、このあと次郎左衛門は権八と栄之丞を斬る。
八ツ橋を殺して全て終わりというわけではないので、勘九郎の次郎左衛門も、そういう見え方になっていたように思う。
中村鶴松が初菊の役で、縁切り場に出ている。
下手寄りの座敷でこちらに背中を向け、顔だけ横顔を客席に見せて座った形がとても良かった。
八ツ橋の愛想づかしのくだりでは、我がことのように辛そうに、いたたまれない様子で俯く姿が可愛らしかった。
2月は、勘三郎の十三回忌追善興行。
今も勘三郎のたくさんの名演が記憶にあって、十三年も経つなんて信じられない。
しかし、中村屋兄弟の『籠釣瓶』を観ると、兄弟がどれほど重いものを背負って踏ん張ってきたか、決して〈あっという間〉という短い言葉で表せない辛く長い道のりだったろう、とも思う。
勘九郎と七之助、どちらも初役なのに、気負った感じがない、観る側が手に汗握らなくていい。
それは、それが許されない状況を2人がたくさん経験して、乗り越えてきたからだろうか。
初役だもの、これからだよね、っていうんじゃなく、「さすが中村屋だ」と唸らせる『籠釣瓶』。
この2人だからできる次郎左衛門と八ツ橋を堪能できた。