歌舞伎座 12月大歌舞伎 第2部_『鷺娘』【観劇感想】
12月歌舞伎座の第2部を観てきました。
《鷺娘》
初演は宝暦12年(1762年)の4月江戸市村座とのこと。
鷺の精は、白の綿帽子に傘をさして登場する。
綿帽子というと、わたしは結婚式の衣装、という印象しかないが、『舞踊手帖』には次のようにある。
宝暦は1751年~1763年。九代目将軍徳川家重と、十代目徳川家治のころ。(『絵で見る江戸の町とくらし図鑑』歴代将軍年表による)
《鷺娘》は歌詞も展開も面白く、見れば見るほど謎めいて、興味が尽きない。
〽妄執の雲 晴れやらぬ
ヒュウドロドロで舞台の奥から登場して、綿帽子を深くすっぽりと被った鷺の精(中村七之助)がしんなりと佇む。
〽迷う心の細流れ 〽ちょろ/\水の一筋に 恨みのほかは白鷺の
あたりで、雪の降る池のほとりで白鷺が羽繕いしたり何かを追いかけるようにくちばしをスイスイと動かす仕草。
そのあと、引き抜いて町娘の姿になって華やかな踊り。乙女の恥じらいと、恋の切なさもどかしさが歌われる。傘を使った傘づくしも見どころだ。
〽添うも添われず あまつさえ 邪険の刃に先立ちて この世からさえ剣の山
からは一転、壮絶な苦しみの踊りとなる。執着の苦しみと、一太刀浴びて白い肩に血が流れ、いわれのない痛みにもがく白鷺の狂おしい羽ばたきが眼目である。
今回、《鷺娘》を七之助が踊るというので、12月の演目で最も楽しみにしていたのだが。
なんというか、観ていると舞台との距離を感じる。
時代劇の芝居小屋のシーンを、テレビで観ているような。そんなちょっと遠い感じ。
3階席だったからでしょ、とも言えない。過去にも同じ3階席で《鷺娘》を見た。最初から最後まで、幻想的な夜の雪原へ釘付け、ということもあった。
大好きな七之助、大好きな《鷺娘》。それがどうして、なんか遠い、と感じるのだろう。
綿帽子からちょこんと覗く赤い唇や、尖った顎が可愛らしい。
引き抜いて町娘の姿になってからも可愛らしい。傘づくしは、ふんわりと傘が飛ぶというところまで行かなかったが、可愛らしかったと思う。
それでも物足りない理由は、白鷺っぽさが薄かったことにあるのかもしれない。
鳥と人間は形が全く違うので、白鷺っぽさ、を出すのはたぶん相当に難しい。
白無垢の袖をサッと広げて羽ばたく様子では、袖の中の手の甲はどんだけ反っているんだろうというしなやかさを求められたり、くちばしを動かすのは首の不思議な動きが必要になる。
驚異的な柔軟性や、予測不能な瞬発力を観たとき、わたしは「白鷺(動物)っぽい」と感じるのかもしれない。
《鷺娘》は、綿帽子に傘をさして現れる最初から 〽しょんぼりと可愛らし あたりまでが白鷺(動物)っぽい動き。
次に人間の娘らしい踊りになって、後半の 〽添うも添われず からが再び白鷺(動物)っぽい動きになる。ここから最後は白鷺の狂乱に近い状態、崩れ落ちて死の痙攣、そして静寂になる。
この白鷺っぽい部分が、中盤の町娘の人間っぽさとかけ離れているほど、ラストの 〽憐れみ給えわが憂き身 がドーンと胸に迫ってくる。もちろん、白鷺っぽさとは、海老反りも含めて曲芸的なものを観たいという意味ではない。
残酷なシーンが、ほのぼのと美しいBGMで引き立つごとく、多くの人に馴染みのある(と思われる)恋心と、人間離れした(白鷺の)動きという全然違うものを組み合わせることで増幅される、痛み悲しみ。
《鷺娘》を観たあと、あれこれ考えていて思い出したことがある。
飼っていた犬のことである。
あるとき、散歩中に、わたしは目測を誤って犬の足をちょびっと踏んでしまった。
犬は、こちらがびっくりするほど大きく悲しげな声で鳴いて飛び上がった。それから素早くこちらを振り返り、「なになに、なんで痛いことするの!? ボク何も悪いことしてないよね!!?」という顔をした。
わたしは、ものすごく申し訳ない気持ちになった。
相手が人間であれば、言葉も通じるので悪気がなかったことを説明できるのだが、犬には(こちらが謝っていることは伝わるかもしれないが)細かい部分は分かるまい。心当たりもないまま、痛みに驚いて、悲しげに怯えるのである。
ごめんビックリしたよね、痛かったよね。あなたは悪くないのよ。
《鷺娘》に感じる、強烈な胸の痛みは、それに似ている。
《鷺娘》の最後の歌詞は、地獄の苦しみが描かれて凄まじい。
今回の筋書の説明では「鷺の精は人間の男と道ならぬ恋をして、思い悩んでいる」とある(このあたりの設定は、「謎めいている」と解説している本もある)。
何か多少、責められる心当たりもあるかもしれないが、やっぱり鷺(動物)の精であるわけで、その動物っぽい動きの中に、「なになに、なんで!?」が表されるほど、悲しさ憐れさが際立つ。
わたしが、《鷺娘》が好きだと思っていたのは、この凄絶な痛みと美に圧倒されたい、ということではないか。
そう考えると、今回の七之助の《鷺娘》は、わたしの感じ方では白鷺っぽさが足りなかった。ゆえに、「なになに、なんで!?」という理不尽な痛みが、期待したほど押し寄せなかった、ということなのだろう。
お読みいただき、ありがとうございました。