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それを言っちゃア、おしまいよ_映画『首』 2023年公開【映画感想】

*ネタバレとなっております。ご注意くださいませ*

北野武監督作品。WOWOWで視聴。

始まって、まず表示されるのがタイトル文字「首」。

最初に映し出される「首」の文字。

うわぁ、首。
り首にしか見えない。

北野作品は昔いくつか見ているのだけど、ストーリーよりも、憶えているのは絵、字、色調。今回も、冒頭の「首」の文字の凄さと、次の川のシーンで色調の美しさに圧倒される。滴るような森の緑、川や城内の翳を作る藍色、文字や血の赤。そして、ちかごろ大河ドラマでも見られない、ド迫力の合戦シーン。豪華な俳優が血まみれ、泥まみれ、水浸し。

じゃあ壮大なスケールのカッコいい時代劇かといえば、北野作品なので、そうはいかない。

登場人物。画像は公式Xより。信長(加瀬亮)の笑顔が怖すぎる。

映画は、本能寺の変と、明智光秀が討たれる部分を含んではいるけれども、そこがキレイに映画のクライマックスになっているわけではない。
信長に反旗を翻した荒木村重が、毛利からの援軍を得られず逃亡するところから始まって、秀吉の策略、本能寺の変、光秀の敗走と来て、最後は光秀を追い詰めた秀吉が、うじゃうじゃと集められた首を苛立ちながら検分するところで終わる。

癇性な殿様の信長(加瀬亮)、真面目が一周して気の毒な光秀(西島秀俊)、なりふり構わず逃げまくる家康(小林薫)。秀吉(ビートたけし)は「百姓なもので」と開き直って、”武士のたしなみ”も武士の情けも解しない。
時代劇のカッコよく出来そうな部分をことごとく外した作りによって現れる、そばで戦国時代を覗き見ているような身近さ。みんなそれぞれに命懸けゆえの、狂気と可笑おかしみ

疳の虫が何万匹も腹に居そうな信長(左。加瀬亮)と
とにかく真面目な光秀(右。西島秀俊)。画像は公式Xより

妹背山婦女庭訓いもせやまおんなていきん》の吉野川(山の段)、大判事清澄だいはんじきよずみのセリフを思い出す。

畢竟ひっきょうおやのとつケるは人間にんげんわたくし天地てんちからときおな世界せかいわイむし

日本古典文学体系99「文楽浄瑠璃集」

信長も秀吉も、日本史上の偉人だけれども、遠くから離れて見れば、みんな同じ「人間」には違いない。可笑しくて悲しくて、斬れば血が流れる人間であり、大地にうごめく生き物のうちのひとつ。

それを示すように、この映画って誰が主役なんだっけ?と思うくらい、信長から百姓の茂助(中村獅童)、弥助(副島淳)、家康の影武者まで、細かくキャラが描かれているのが興味深い。
(たとえば黒人の弥助は、信長の通事つうじでもあるのだが、信長が宣教師に「おい南蛮坊主」と呼びかけたのを「この白いクソ坊主」と訳す。本能寺の変でも「黄色いクソ野郎!」と叫んで信長の首をねている。)

そしてタイトルの「首」。

信長は自分を裏切った村重(遠藤憲一)を、「首」をつけたまま捕らえろと言い、光秀は本能寺でなんとしても信長の「首」を探せと焦り、家康の「首」は斬っても斬っても影武者のそれである。御首みしるしとも言う通り、貴人の首にはあかしの価値があるわけで、誰も彼もとにかく「首」にこだわる。首、首、首。
ところが、首がゴロゴロと転がった庭で、検分している秀吉が最後に怒鳴る。

「俺はなァ、光秀が死んだって分かれば、首なんかどうだっていいんだよ!」

それを言っちゃア、おしまい。身も蓋もない。でもだからこそ、これ以上ない破壊力のラスト。しかも、ボカンと秀吉が蹴った首は、奪い合いでよごれ、黒田官兵衛(浅野忠信)も秀長(大森南朋)も見分けられなかった、光秀。

痛快と見るか、恐ろしいと見るか、いろいろと感じ方はあるだろう。
合戦シーンや信長が能を見るくだりや、光秀の最期の場面のように、ギュッと締まる部分と、秀吉と秀長と勘兵衛のやりとりのユルさ。たくさんの登場人物を細かく描いているのに、メッセージ部分に「あとは好きに考えな」とでもいうように残された余白。

生きる残酷さと、可笑しみ、皮肉、そしてそれを包む自然の音、目を見張るような色調美。
映画館でも見ればよかったな、といくらか後悔した。

この3人のやりとりは、どこまで台本なのだろう?という可笑しさ。
画像は公式Xより

お読みいただき、ありがとうございました。