映画と私と、カーペンターと
あんまり精神障碍者の身の上話ばかり投稿してると、障害福祉noteだと
思われるし(まあ半分そうなんですけど)、書いている方もマンネリ化してくるので、今回は趣味の話を。
私が今年の夏、世界中のどんなイベントよりも(当然オリンピックよりも)
強く実現を望んだイベントは、映画監督ジョン・カーペンターの特集上映です。
数年前、カーペンターの映画3本を特集上映するというイベントが都内の映画館であったんですが、残念ながら3本とも私があんまり好きじゃない映画だったので、参加を見送りました。
カーペンターは私がフアンだと公言できる数少ないアルチザンの一人です(この人をアーティストと呼ぶのはやはり違うと思う)。主に1980年代から1990年代にかけて傑作・佳作を連打してきた監督なので、私よりずっと年上だけど、世代的にもシンパシーを感じます。
私は中学生のときにロードショウとかスクリーンという映画雑誌を買い始めて(今ではいずれも廃刊)、以来、40年近く映画を見続けてきました。
中学生の当時は完璧に無意識でしたが、今となっては映画にハマった理由が
ASDやADHDに特有のバーチャルリアリティー逃避行動だったのだと理解できます。
1980年代に少年だった私には映画やロック・ミュージックがバーチャルリアリティーの王道でした。今の少年たちには電子ゲームやアニメが王道なんでしょうね。
バーチャルリアリティーの娯楽は現実逃避を目的としているので、当然、どれだけ視聴しても、どれだけ参加しても人間的には全く成長しません(ただし自分自身がバーチャルリアリティーのクリエイターになった場合は別)。
しかし、成長しようとしまいと重度のコミュニケーション障害を抱えた人たちには、何らかのバーチャルリアリティーは必要不可欠です。何故なら、それがないと自己の生存そのものが脅かされるような、強烈な劣等感を日々、
抱えながら生きているからです。
私自身は少年のころ映画と出会わなければ、生きてこれなかったと思います。十代の私にとって、都内のミニシアターや地元の映画館は魂の避難所
(シェルター)でした。
私は映画を見ることで人間的には全く成長しませんでしたが、1つだけ映画を見続けてよかったなと思うことがあります。以前、坂本龍一がこんなことを言っていました。
「アメリカが自由の国だったことは一度もない。だけどぼくらはアメリカか ら自由への幻想を学んだんだ。」
これを私なりに変換すると、
「日本が自由の国だったことは一度もない。だけどぼくはアメリカ映画から
自由への幻想を学んだんだ。」
この国に自由はないけれど、自由への幻想を追い求める自由はある。これは私にとって重要な認識だったし、今でもそうです。自由への幻想とは当然何もしないことではなく、不自由を強制してくる体制に対して反抗することです。私は50代になった今でも、体制に反抗することを恥ずかしいとは少しも思いません。
こうした感情は冷めた目で見れば「真面目な中学生の正論」です。けれど私はこういう中学生の感情を失うことができないし、失いたくない。
私はジョン・カーペンターの映画を見ると、こういう真面目な中学生でしかありえないことを肯定してくれる気がするのです。「しょせん人生は一回きりじゃないか。君の好きなようにすればいいだろ。」って。
たぶんカーペンター自身が60年代の少年であると同時に、永遠の真面目な中学生なんだと思う。もう、あなたの新作を見ることはないと思うけど、
真面目な中学生は不器用にあなたの映画を語り続けます。