世界の終わり
かつてカーペンターは聴衆の前で堂々とこう語っていた。
「映画は娯楽だと思っている。」
しかし、カーペンターの遺言のようにも見ることができるこの短い
映画の中で、悪魔に魅入られたもう一人の映画監督はこう断言する。
「映画は娯楽ではない。」
正直、カーペンターの晩年に作られたテレビシリーズの1篇ということで、
それほど過大な期待はしていなかった。最初に見た時の印象は、
「なるほどカーペンターらしさが出ているし、地味だけどまあまあ面白い
ミステリータッチのホラーだな。」という感じで、軽い気持ちで楽しま
せてもらった。
しかし、この映画を2回目に見た時に、私の印象はかなり変わった。
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カーペンターは彼が監督した映画の脚本や編集によく表れているように、
無駄を嫌う。無駄を嫌うということは、機能的な人物や道具を愛するということであり、映画の機能性を妨げるような要素をあらかじめ排除する。
(カーペンターの映画では機能的でない人物はあっさり、簡単に殺される)
トラウマとは人間の機能性を最大限に妨げる要素である。カーペンターが
好んで描く無情な世界では、過去の忌まわしい記憶に苦しんでいる間に、
銃弾が飛んできてすべてが終わる。だから「ヴァンパイアズ」の主人公ジャック・クロウは吸血鬼と化した父親を自らの手で殺したという凄惨なトラウマを抱えながらも、強烈なプロ意識とバイタリティとで忌まわしい記憶を封印し、そのことを気にしない。
カーペンターの映画では主人公が疲れてため息をつくことぐらいは許されても、フラッシュバックで前後不覚に陥るようなことは絶対に許されない。映画の機能性そのものが失われるからだ。少なくとも「ゴースト・オブ・マーズ」まではそうだった。
ところが「世界の終わり」の主人公である映画館主は、過去に薬物中毒の恋人を自殺に追い込んだという強烈なトラウマを抱えている。彼は戦闘のプロフェッショナルでもタフガイでもなく、赤字続きの映画館を抱えたキワモノ映画の発掘人でしかない。彼は亡き恋人の幻影に対峙して、前後不覚に陥りながらも最後まで主人公を務め上げる。
私はこの映画を2回目に見た時、「世界の終わり」が娯楽なのか、それとも
ただの娯楽ではない邪悪な意思が伝播される映像なのか、区別が付かなくなった。
今、冷静に考えれば娯楽でありB級ホラーなのだと思う。それは信頼する職人が「映画は娯楽だと思っている。」と言ったからだ。だが、「世界の終わり」の主人公は、かつてのスネーク・プリスキンやジャック・クロウのようにこの世界への信頼を回復させてはくれない。ただ最悪の結末を選択し、視聴者に対して「この世界の終わり」を証明するだけだ。
何故、カーペンターはトラウマに苦しむ男を主人公にして、映画の機能性を放棄したのだろう? 1時間の短編だから構成上、それが可能だと考えたかもしれないし、あらゆる暴力や自己破壊の根底に個人のトラウマの問題があると考えたかもしれない。
これらの疑問の答えが5年後にカーペンターが監督した「ザ・ウォード 監禁病棟」で解き明かされるはずだったが、残念ながらこれは単なるB級ホラーであり、しかも失敗作でしかなかった。これ以降、カーペンターは映画を一切監督していないので、「世界の終わり」が私に投げかけた謎は永久に解けないままだろう。
カーペンターは自らのフアンの前で「映画は娯楽だ。」と宣言し、一方で
自らが監督した映画の中では映画監督に「映画は娯楽ではない。」と断言させる。どちらも嘘ではないことを「世界の終わり」という映画が証明している。この映画は世間に流通する娯楽と現実に拡散していく邪悪な意思との間に生まれた歪みのような映像だ。
機会があれば、また私はこの映画を見たい。ひとりきりで、メンタルが不調でないときに。ただし、「世界の終わり」を見た後の主人公と同じ選択はしない。