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食べるということ-2

うちの家にはいろんな包丁があった。

普通の菜っきり包丁だと思って使っていたのが肉切り包丁だと気がついたのは大学に入ってからだった。

大出刃、小出刃、刺身包丁、普通の家にそういう包丁はあまり置いていないということも知らずにいた。

父は釣りが趣味で、親子で良く和歌山に釣りに行った。磯からグレ(メジナ)やイガミ(ブダイ)、浜でキス、ガッチョ(メゴチ)、時にはタイやチヌ(クロダイ)なんかを釣ってきた。

家に帰ると、庭にあった水道の蛇口からチョロチョロと水を流しながら父が包丁を研ぎ始めた。親が包丁を普通に研いでいる家がそんなにないことも良く知らなかった。出刃包丁で魚を三枚に下ろして、皮を引いて、刺身包丁で削ぐようにして刺身を作る。そんなことも我が家では日常だった。

大根を桂にむいて刻んでケンを作る。

父は元々洋食のコックだったから、和食の技法は修行していないはずだから、友達の和食の板前から教えて貰ったのか見様見真似だったのか、いつもそんなことをしていた。

時には酢飯を作って寿司を握ったりもしていた。

父が亡くなってから、たくさんの包丁はうちへとやってきた。

そして私も見様見真似で魚を捌き、時には寿司を握る。

もちろん上手とは言えないけれど、寿司の手返しはなぜだか覚えている。

母も見様見真似でアジなんかは捌いていた。

普通の家では切り身になった魚を買ってきて、焼いたり煮付けたり、刺身はもうすでに「刺身」になったものが食卓に並ぶから、それがどうしてそんな形に加工されたのかは知らない人も多い。魚の身を見ても何の魚かわからないことも多い。

正月は黒門市場でブリを一匹丸ごと買ってきて、捌いて、焼き物、煮物、刺身に料理する。

残ったアラは大根と生姜を一緒にミリンと濃口醤油で甘めに炊いてアラ炊きにする。水は入れない。沸騰したらアクを取って、一晩寝かせる。

カマは塩焼き、骨にまとわりついた身はスプーンでこそげてネギと少量の生姜を包丁で叩いてなめろう風に。どこも無駄にはしない。

釣って、捌いて、食べる。収穫して、料理して、食べるというのは、自分たちがどういうものを食べているかを知るにはとても大切なことだと思う。

洋食の技法で肉を、和食の技法で魚を料理できるだけでも食の世界は大きく広がる。

私はどうやら「食」に関しては家庭環境に恵まれていたみたいだ。

最近は淀川で夏の終わりに鰻を釣って開いて蒲焼にして食べる。都会の河も今は浄化が進んでいろんな魚が帰ってきているのだ。

淀川では春にはキビレチヌ、夏はウナギ、秋にはハゼ、冬にはスズキが釣れる。冬の淀川は底が見えるほど澄んでいて、河原を掘るとシジミが採れる。

和歌山の海は流れが早く、やはり潮は澄んでいて沢山の魚種が釣れる。三重県の海は池のように静かで、その薄く濁った海の底には大物が潜んでいる。日本海に出て久美浜に行くと内側は汽水湖で様々な魚の幼魚を育んで、海とつながる外側には思いもよらない大型が潜んでいる。大潮の日にはその潮が満ちるのに乗って沖合から多くの魚が川に登ってくる。

釣った魚はその場で血抜きをして直接氷に当てないようにビニル袋に入れて、氷水に。

釣りというのは自然との会話が大切で、その日の自然の条件でどこに魚がいるのかを知っていないと釣れない。

猟師が獣を狩るのも同じように自然との対話が大事なんだろうな。

とはいえ、私は漁師ではないから、一人で手に入るだけの獲物を一人で食べ切れるだけの量を残して、あとは海に帰せば良い。

「食」に対して「今日もありがとう」って気持ちになれると良いけど、普段コンビニでお弁当買ってるとわからなくなるよな。

「食は命を食べる」のは昔も今も変わらないけれどね。

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