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事業再生のこと-5

事業を再構築するのに3年は長いのだろうか?短いのだろうか?

経験から言えば事業を再生する3年間は短かった。しかし、その3年間の変化の量は半端ない。

28歳で最初の独立をしたとはいえ、58歳になるまで何も分かっていない個人経営主が事業とも言えない零細店舗を立て直そうとするためには本当に多くのことを学ばねばならなかった。

マクドナルドハンバーガーを世界に名だたる大企業に成長させたレイ・クロックは52歳から事業に取り組んだ。私が妻が行っていた飲食業の再生に取り組みはじめたのは59歳だった。

以前の私は「リスク」を嫌った。「お客様」の気持ちで繁盛するか衰退するかが決まる「客商売」。しかも材料の仕入れが必要でそのロスがとても大きい「飲食業」は私が一番避けたい業態だった。

そのために「仕入れ」がほとんどないソフトだけを販売する「クリエイター」の道を選び、顧客が自分で「仕入れ」を行いサービスだけを販売する「スクール業」を選び50歳を過ぎれば引退とさえ考えていた。

しかし妻の飲食業の赤字はのっぴきならない状況で、このままいけばその引退と老後を脅かしかねない状態だった。

クリエイターの仕事はクライアントの経営や経済状況に大きな影響を与える。ましてや私が得意としている「ブランディング」はその成果で企業の経営状態に大きな変化をもたらす。

巨大ファスト・フード企業を育て上げたレイ・ロックは成功者である反面、新しい事業の芽を摘み取って奪った「悪者」としての一面も持っている。

私にはレイ・クロックのような剛腕さも冷徹さも持ち合わせてはいない。

子供の頃から「やれば出来るのに」と周囲に言われながら「誰とも競いたくない」という気質で何かに本気で打ち込むことが出来なかった。「そこそこの成績」「そこそこの地位」があれば良いと思っていた。ただ一つ「他人と同じは嫌だ」という気持ちから、大学は海洋学部で魚の研究、コピーライターの勉強、デザイナーとして就職、プランナーへと転身、ブランディングを学習、革職人に転職、クリエイターに復帰。という変則的な人生を歩んできた。

それぞれのキャリアで「そこそこの成績」を収めてはいたが「デザイン」以外のもので本気で取り組んできたものはなかった。

妻の事業が頓挫した時に「全てを辞めて、とりあえずパートでもしながら借金を返済する。同時に妻とは離婚する」という選択肢があった。

少なくとも「失敗しない」方法を知っていたけれど、そのために必要な約束を妻は一つも実行できたことがなかった。だから、何度やり直したとしてもその事業は必ず「失敗する」という確信があった。

そこで究極のもう一つの選択肢が浮かび上がった。

「本気で経営者になる」という選択肢。

「誰とも競いたくない」自分が「必ず誰かと競い続ける世界」に足を踏み入れることは、ある意味「自己否定」をすることでもあった。

でも人間は一つの面だけを持っているわけではない。いくつもの多面性を持ちながら人間の個性は出来上がっている。

「人と競うのは嫌」な自分の中に「パワーゲームへの興味」が内在していることを知っていた。ただ、これまで自分の周囲にいた経営者の中には「パワーゲーム」に溺れて、自分の能力を過信して、周囲の人々を蹴落とし、裏取引をし、最後には自滅していった人たちをたくさん見てきた。そして万が一事業者として成功していたとしても自分の分身のような「悪徳業者」を生み出し、また自分の家族も含めて不幸にしていることに気づかない人々。彼らを嫌悪していた。

彼らと同じ土俵には上がりたくないという気持ちが強かった。

クリエイターの仕事についたのは、彼らが全盛期に放っていたエネルギーが「みんなを幸せにしたい」という気持ちから生まれているのを見てきたからだ。だから逆に彼らと同じ土俵に上がりたいという気持ちが芽生えた。

妻の事業を立て直す、ということは嫌悪していた「パワーゲーム」に身を投じるということだった。ただパワーゲームの全てを嫌悪しているわけではない。

きっと自分が嫌ってきた「パワーゲーム」の彼らが「必要悪」だと言ってきた部分を使わずに、もっと「みんなを幸せにしたい」を形にしながら事業を拡大する方法があるはずだと手探りを続けてきた。

時代がSDGsを訴えはじめて、光明が見え始めた。その反面大きな紛争や自然災害が増えはじめて暗い影を落としはじめている。

でも、これらは今「みんなが幸せになりたい」という時代でもある。それは真っ直ぐに事業を育てることのできる時代でもある。

妻の事業に本格参入するために、それまで行ってきた革関連の事業は縮小し、デザイン関連、特にブランディングの事業は妻の製菓業に並走する形を取りながら持続してきた。

ブランディングを「地産地消」で行うことが美徳のように言われているが、地域に貢献することは地域から商品や情報を拡散して地域に資金や産業を戻すことだと思っているし、私たちは幸運(?)なことに地域への帰属意識を持たない。地域を盛り上げるのは「人」であって、その「人」が本物であるのかどうか?にかかっていると思っている。

「地域」をネタに地域貢献ではなく自己収益が目的ではないのか?地域にどうやって還元し、地域に何を育てようとしているのか?長期にわたって実効性のある計画を持っているのか?

仕事での「運」は信用しない方が良い。というのが持論だが、この時は「運」も味方をしてくれた。でも「運」には必ず布石がある。事業地から飛び出し首都圏での働きかけを8年に渡り続けてきた。妻の事業に関してはまさしく2019年から首都圏での販売会を自ら探して実行した。あの販売会を実現した時が妻が自分の力で約束を実行したはじめての時で、しかもその挑戦は大きな成功を収めた。

現在の事業地に縛られず、さまざまな場所に出向き、そこで種をまきいろんな場所で芽吹く。そんな形を私たちは目指している。

妻の挑戦と私たちの布石はその後「お取り寄せ準グランプリ」受賞というもう一つの花を開かせた。そのことはそれまで何の根拠もなかった彼女のキャリアに「自信」を植え付け、同時に「何かを始めれば何かを得ることができる」という行動原理につながっていった。

来年、私たちは二つ目の拠点を得るために努力を続けている。さらにその先を見つめて、誰もが考える「パワーゲーム」ではない方法で拡大をしようと考えている。

以前は考えたこともなかった「菓子製造販売」という事業形態の10年先を見据えながら今は考え、動き続けている。

ただの個人事業主が迷走しながら進み続けている。

私は私がやろうとしていたクリエイターとして、あの頃に夢を与えてくれた人たちと同じ土俵に上がることを諦めたわけではない。とても長い回り道を歩きながら、皆んなとは別の道を通って辿り着けることを信じている。

今年、私たちは法人成りをする。

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