悲しい感情があると気づいた、犬が死んだ日
ちょうど1カ月前、14年と6か月過ごした犬が死んだ。
庭に季節外れの朝顔が咲いた日だった。
足の傷の炎症が引き金であったが、老衰に近い安らかな死に方だった。
「もう別れは近いな」
と思いながらも、今晩、いや、明日までは大丈夫だろう、と寝室に入ったその時、階下の夫と娘から
「おい、なんか変だぞ、早く!」
と言われてリビングに戻ると、けいれんしている犬がいた。
慌てて、私の胸元に抱きかかえて
「はやちゃん!」
と名前を呼ぶと
「ハッ~」
と最後の息を吐いて、そのまま動かなくなった。
「ああ、、、」
と夫がいい、半分開いている瞼をしめてやっていた。娘が「私も最後まで抱いていればよかった」と涙をぼろぼろこぼした。
「かわいそうに、かわいそうに」
誰にいうでもなく、だんだん冷たくなる犬の頭を撫でながら私は言った。娘は背中を撫でていた。
そして、びっくりした。私も涙が出ていたからだ。鼻水も。
「あっ、泣いているんだ。」ということに気づいたから。
30年以上前での実家の出来事だ。10年飼っていた犬が死んだ。3月、桜のつぼみの頃だった。
安らかに眠った犬。その犬を見て、妹は犬のようにワンワンないた。
一晩中ベットの中で声を押し殺して泣いていたのを知っている。
しかし私は泣けなかった。寂しい感情はあったが、哀しいと思えない自分。妹との違いにもガクゼンとした。
「私はどこかおかしい。非常な人間なのだ」
それ以来、犬を飼うことが怖かった。そして死なすことも怖かった。自分の非常さと直面するようで。
しかし、今、確かに悲しい。どうしようもなく寂しい「感情がある」。
悲しいのは嫌だが、「ある感情」なんだ。
実家は、父の暴力で毎日が「戦場」だった。そんなときに「悲しい」とか思っていたら、生き抜けない。
悲しく厳しい中で、立ち向かわなくてはいけないのだから感情なんて、邪魔だった。そして、いつしか「楽しい」も「嬉しい」も遠くなっていた。
でも、「悲しい」と思う私がいる。
1ヶ月たってた今でも、愛おしく、可愛く、悲しく思える。
思えば犬との出会いは運命だった。
ペットショップに来て二日目(らしい)にゲージ越しにみて、一目ぼれ。すぐ「売約済み」にしてもらって後から家族を説得した。運命のワンコだ。
いつも私の足元に転がっていた。
病気になって臥せっていると、夫からは放っておかれている私を、犬だけは必至で2階まで小さな足で上ってきて、
「かーさん、かーさん、大丈夫かよ~~」
というように喜んだ顔で、しっぽを振っていた。
まだまだ思い出は山ほどある。
そんな思い出をよくよくかみしめて、いく。
そして、君が死んだ日のように、いつか「ハッ」と全身の息を吐ききって潔く死ねる日まで生きよう。
多分、その時、君が、迎えにきてくれるね。
また天国で一緒に散歩しよう。好きだったボール遊びをしよう。
その日まで、君の骨を大事に供養するよ。
夫が「買う」と決めたちょっとお高めのハート形の骨壺に入れて。
いつも、あの出会いの日と、最後の日を忘れない。
まだまだ悲しいけど、悲しいという、純粋な感情とともに生きてみるよ。
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