認知症はステップ親子のしがらみを美しく洗い流す
双子ちゃんは、顔も性格も似ていますよね。特に一卵性双生児は
多分、多くの方が「うん」とうなづかれると思います。
でも、最近、長く暮らした夫婦の顔も似ている、とも言う人もいます。
大谷翔平さんと奥さんも(あ、新婚か)。同様な経験や価値観で一緒になったからでしょうか。
私は、決してDNAの専門家でもないのですが、「DNAよりも経験って何かを『産む』のかも」と驚きと共に嬉しかった経験が、最近ありました。
母と兄のことです。
兄は、母の実の子ではありません。先妻の子でした(と言われたのが、私が20歳前。アホな娘です)。
と、アホであっても足りるように、兄と母は仲が良かったのです。表面的には。
特に、私や妹が悪さをした時のように、𠮟り倒したりしません。
兄も、母に優しい言葉がけをします。反抗とかしませんでした。
つまり「ほどよい距離感」がある親子でした。
同居している時は、ほんの1ベクトルの違いのようなお互いの接し方。
それが、距離を経て(結婚して独立する)、血縁を経る(子どもができる)と、ベクトルの違いは大きくなっていきました。
妹が独立した後は、「あの子、ちゃんと生活しているんだろうか。またレトルトばかり食べているんじゃないか。掃除はどうだろう。」
と、いらぬことで心配をして電話をしたりしていました。
兄の時は、結婚当初は
「奥さんとうまくやっているかな。まゆみ、電話してみて。」
と言われて私が電話をしたことがありましたが、それ以来は「用事がある時は電話する」に徐々に転換していきました。
そして孫ができた時も、
「かわいい、かわいい」と言いながら、「奥さんのモノだから」と可愛がりながらも何だか距離があるのは明確。しかし、、、
私が生んだ最初の娘(母からすると血のつながった初孫)の時は
自分が食事する時も抱っこしたまま。また私と娘が、実家を出て帰ろうものならば、娘の寝ていた布団に顔をうずめて残り香をかいてしばらく泣いていたと聞いた時には、
「ちょっと、大丈夫?」
と心配するほどでした。
そんなこんなを経験すると、やはりDNAがモノをいうのだろうか。
長く一緒に過ごした年月も、DNAには勝てないのかと思いました。
ただ、私の2番目の娘にはそれほど執着はしないんです。
いや、「母は人に対しても、物に対しても執着する・しないの差が大きいだけではないか」と思うようになりました。
そんな母も今や、大股で認知症が進んでいます。
私が行っても多分名前も分からない。
「まゆみですよ~~」というと、何やら自分の娘らしいと「理解」するみたいですが、2日前に来たことはもちろん、5分前に渡した服のことさえも忘れています。
そんな母が、先日ふっと言ったのです。
「やっちゃんは、元気だろうか、あの子は喘息がひどいから」
季節外れの花粉が舞っているから、今日は買い物いくのはやめようね~と諦めさせた時でした(歩けないから、もともといけないのですが)
兄の名前と、病弱だった兄のことを母が思い出している。
母の脳裏によみがえったのは、小学生の頃の兄かも知れません。
しかし、しっかりと覚えているんだ。
そして、兄を心配している。
母の思い出の中に、ちゃんと兄は存在している。
それが嬉しかった。
ほっこりと、あたたかさが心に沁みました。
DNAは、ただ、人の嗜好性を決める要因の1つかもしれない。
そして認知症という症状は、血縁がどうとか利害がどうとかという「世俗のしがらみ」を洗い流してくれる。
その人と過ごした優しい時間(自分が優しさを感じた瞬間)は、点在しながらも美しく残してくれる。
それこそが、「生きた時間・経験」なんだろう。
いつか自分も行くかもしれない、認知症の世界を間近にみながら、何か救われる気持ちになりました。
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