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書籍『コンヴィヴィアル・テクノロジー 人間とテクノロジーが共に生きる社会へ』の中で気になった箇所と思ったこと
年始に読み終えた書籍『コンヴィヴィアル・テクノロジー 人間とテクノロジーが共に生きる社会へ』
その中で気になった箇所の引用とそこについてのコメントについていくつか書いていった記事となります。
人間がテクノロジーを意識することなく自然に使いこなせる世界は、裏を返せばテクノロジーがブラックボックス化され、さらに言えばブラックボックス化されていることにさえ気づかない世界にもつながりかねない。そこには先ほど述べたような、知らず知らずのうちに再びテクノロジーに隷属させられてしまう状況を生み出す危うさも潜んではいないだろうか。
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これは例えば日本のような国における「お金と人間」の関係のようだ。お金がなければ生きていけないとすぐに判断してしまうが、本当は空気・水・食べ物がなければ生きていけない、というのが抜け落ちてしまっている。
人間はただ道具を発明するわけではない。道具が人間を発明するのだ。(中略)道具と人間は互いを生み出しあっている。
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起業家・発明家であり書籍『お金2・0 新しい経済のルールと生き方』が20万部をこえるベストセラーになった佐藤航陽さんがの2冊目の書籍『未来に先回りする思考法』において紹介されていた「テクノロジー3つの本質」(①人間の拡張②人間の教育③掌から宇宙へ)を思い出す。
道具によって自分の能力が拡張されていると感じれば感じるほど、それが道具に依存していることによるものだとすら気づけなくなる。
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先のお金の例でいえば、お金を持っていればいるほど自分の能力が拡張されていると感じるがその限りではない、ということか。本当は肩書きだけで繋がっている人間関係も似ている。
人間の自発的な能力や創造性を高めてくれるコンヴィヴィアルな道具と、人間から主体性を奪い隷属させてしまう支配的な道具
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ここだけを抜き取ると、あたかも道具が意思を持ち、人間を隷属させるかのように受け取ってしまうが、人間が生み出した道具以外で、そのような道具はありえるのだろうか?自然は人間にとっての道具なのだろうか?
書いた後に思うが、例えば、火を使うようになったなど、ヒトの進化と自然の道具化は密接に思えてしまった。
が、自然を「人間によって道具化された自然」と、「ありのままの自然」に分けるとすると、前者はあくまでやはり人間が生み出したものと言える。
となると、道具にコンヴィヴィアルか、支配的かといった色があるのではなく、あくまで使われてきた・使う人間の意図次第と思える。
ここのところは道具を主語に置いてしまうことで、人間が本来持っている力が隠されてしまうという弊害があることを忘れずにいたいと思った。