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あなたは今、何がしたいですか?【我慢して生きるほど人生は長くない・鈴木裕介】


ミッドライフクライシス

ラインオーバー〜他人との境界線がわからない


ある時は、仕事で大きなミスを犯し悩んでいる知人がいると、自分のことのように悩み、自分の身をすり減らしてでも助けてあげようと思う。

結果、知人は私が思うほど深くは悩んでおらず、次なるステージに向かって軽やかにステップを踏み、私の中にはその尻拭いをしてあげた、というモヤモヤだけが残った・・・。


またある時は、姑とのギクシャクした関係にあるのは母なのに、その小言を聞いているうちに、私の中の「対祖母」の立ち位置だけではなく、「対姑」の空気が色濃い母の影響を受けた私が、祖母に対して生意気な口をきく・・・。


こういった、他人の(ここではあえて血縁の家族でも、自分以外は〝他人〟という定義で書く)心の有り様に影響されまくった自分が、一緒になって怒ったり悲しんだりする、ということに、何の疑問も持たずに過ごしてきた時間は人生の三分の一以上はあったと思う。


人が困っていたら親切にしよう


そんな価値観は、子供の頃なら誰でも教わってきたことと思うが、大人になってからはさらに細分化され、


(利害関係が一致した)人が困っていたら親切にしよう


という種類の人が一定数以上はいる、当たり前のようにいる、ということを知る。さらには、数年にわたって信頼関係を築いてきた(とこちらは思っていた)相手が見ていたものは、私ではなく、私の向こうにいる繋がりのある人々だったりして、自分の人を見る目のなさに落胆することもあった。



私の弱みは、他人との境界線がよくわからないこと。
人の価値観に感化されやすく、共感できることが正義、とばかり、相手の意向を汲み、理解しようとする癖が子供の頃から抜けない。


こういう、人との距離感の取り方がよくわからずに、相手の気持ちの領域まで入り込んでしまったり、逆に、入り込まれたりすることをラインオーバーと言うそうだ。人との境界線が曖昧な人がよく陥りやすい現象で、受け身の被害を被る以外にも、頼まれてもいないのに「良かれと思ってやった」ことが相手に感謝されないと、「〜してあげたのに」などと憤慨して相手を困惑させてしまうことも、まあまあある。


子供の頃から、誰かの意向や場の空気を読んで立ち回る癖がついている人は、このラインオーバーになりやすい。そして、それを繰り返しているうちに、自分が本当は何をしたかったのか、どういう価値観を持っているのか?がよくわからなくなってしまうのだそうだ。



出る杭は打たれ・・・たくないから、やってしまうこと


田舎によくありがちな、「出る杭は打たれる」パターン。これも、打たれるのがわかるから、出過ぎないように気を遣うか、そもそも出ないようにするという選択肢に至る。〝世間の当たり前〟〝世間の常識〟に縛られ過ぎて、自分の考えや行動を制限しているうちに、あれもできない、これもできないの連続で、田舎に住んでいると「何もできない」ような気持ちになってしまう。


一番囚われているのは、自分の思考


上記のような「何もできない」を言う時点で、その思考に囚われ過ぎているのは、そもそも自分である、ということに早めに気づかないと、一生を棒に振ることにもなりかねない。(大袈裟じゃなく)


先日、数十年来の人生の先輩と、久しぶりにスーパーでばったりお会いした。義実家住みの長男の嫁、という境遇にシンパシーを感じてくれているらしかったが、義実家を出て3年目になる私にとっては、もうその価値観が過去のものになっているため、心からの共感ができなかった。何なら、「なぜ、そんなにも嫌悪感を持っているのに、そこに住み続けているのか?」という疑問さえ持ってしまった始末(心の中で)。

定年を過ぎてもなお、また、いつ天国に行ってもおかしくないほどの年齢(言い方に語弊があるのは承知の上で・・・)の義両親の言動に、いつまで真正面からダメージを受けているのか、そんな時間の過ごし方をして自分の人生の時間がもったいなくないのか、と。

その先輩もまた、嫁ぎ先から飛び出すわけにはいかない、という自分の思考に囚われているんだと思う。


それは、子供のためだったのかもしれない。

それは、収入面など、自分の未来のためだったのかもしれない。

それは、愛する旦那さまの存在があったからかもしれない。


それなら「そのためにここに住むことを選択したんじゃないか」と腹を括ったご自身の方が、「出ようが住もうが、そのカードの選択権は私にあるんだ」と思っている分、楽になれるんだろうな、と思う。


出てもいいし、「出ない」という選択をすることも、もちろん、アリだからだ。


自分で選び取った選択なのに、

「嫁は、姑の存在を常に立てながら、家に残らなければならない」

という(おそらく代々の)教えを守ろうとするあまり、そこから自分を解放しようと準備し始めることさえ放棄してしまったのだろう。

本当に嫌なら、出ようという行動のために準備し始めることが、いつからでも出来たはず、と思うからだ。



【我慢していきるほど人生は長くない/鈴木裕介】


身体的ニーズを把握すことから始める


とはいえ、そんな中で長く暮らしてきたのなら、犬猿の仲の嫁姑の関係以外にも、大切にしたい人間関係やなかなか切ることのできない人間関係も、たくさん育っているはずで、それをひっくり返してまで路線変更をするのには相当なエネルギーを要することも理解しているつもりだ。(現に、自分自身がそうだったので・・・)

「他人にどう思われようと構わない」

の境地までいけるのならば心配はないけれど、心身のバランスを崩してまで望まない環境に身を置いているのだとしたら、まずは、自分の身体のサインをキャッチできる方法を試してみては?とこの本は教えてくれる。

なお、私は、心身のバランスを崩して休職中の患者さんなどには、「自分の身体的ニーズ」を書き出すことをおすすめしています。

身体的ニーズとは、「疲れているから休みたい」とか「今、〜を食べたい」といったことです。

(中略)

親の都合ばかりが優先される家庭で育った子どもや、夫や子どもの都合を優先するのが当たり前になっている専業主婦の方も、同様です。

「今日の献立はどうしますか?」「あなたは何が食べたいですか?」と訊かれても、常に親や夫、子どもが食べたいものを優先させてきたため、「自分が食べたいもの」を献立にするという感覚がなかったり、何を食べたいか自分でもわからなくなってしまっているのです。

【我慢して生きるほど人生は長くない/鈴木裕介】


自分の、見えにくくなってしまった身体ニーズを見つけ出し、それを話したり書いたりすることで外在化し、満たしていくこと。

他者のニーズよりも、自分の身体的ニーズにYESを言う練習が必要だと説く。



ミッドライフクライシス


人生の中盤、さまざまな経験を積み多くの価値観に触れることで、これまで信じてきた価値観が大きく覆された感覚を持った時の危機感を、ミッドライフクライシスと言うそうだ。


私の場合、危機感を覚えたというよりは、実力にさほど差のないプレイヤー同士がオセロをしているかの如く、自分の価値観が裏返ったり、人の価値観を見てそうじゃないよな、と思ったり、を何度も繰り返しながら、自分なりの価値観が見えてきた・・・ような気がしている。


「あなたは、何がしたいですか?」


この質問がとても苦手だった。その答えをジャッジされるような気がして、自分の気持ちを表明するのが苦手だったからだ。
同じように、この手の質問が苦手なあなたには、もう少しソフトな質問をしてみよう。


「今日のご飯のおかずは、何が食べたいですか?」


何を食べたいと思っても構わない。実際に食べたら100点満点だ。その上でどう感じたか?を積み重ねていくことで、あなたの身体的ニーズが満たされていくことを、あなた自身に教えてあげよう。


我慢は美徳、ではない。


譲り合いの精神も、ほどほどに。


他者の一挙手一投足や価値観に翻弄されているうちに、短い人生はあっという間に過ぎてしまうのだから・・・。







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