映画と演劇が教えてくれた文章の立体感。
こんにちは。物語のアトリエの安藤です。
人生の物語に光をあてる文章制作と、対話ワークショップの企画運営に取り組んでいます。このnote では、はじめの一歩として、私自身が【ライター】という職業にたどり着くまでのプロセスを振り返りながらアウトプットしています。
さて、今回のテーマは、大学在学中に没頭した映画と演劇についてです。
【他者の話】を聞いて書くには、映画や演劇をむさぼるように観てきたことが大きな糧になっていると思うからです。
私が夢中になったのは1960-1970年代の洋画です。以前の記事で書いたように、小さい頃から映画音楽が好きだったので、ほとんどは音楽がきっかけで観たものばかりなのですが、途中からは俳優さんに惹かれて、いもづる式に他の出演作品を観たりしていました。
「太陽がいっぱい」「荒野の七人」「ウエストサイドストーリー」「風と共に去りぬ」「ハタリ!」「アラビアのロレンス」「シャレード」「おしゃれ泥棒」「サウンド・オブ・ミュージック」「戦争と平和」「アンナ・カレーニナ」「ひまわり」「カッコーの巣の上で」「シェルブールの雨傘」「雨に唄えば」「アパートの鍵貸します」etc……
授業をサボって大学の中央図書館の視聴覚ルームに入り浸り、片っぱしから観ていました。立派な研究テーマがあったわけではなく、ただ、観るだけ。興味の赴くままに、です。
台詞に書き起こされず伝わる情緒
映画では一般的に、小説でいう【地の文】(ナレーション・語り)がなく、【会話文】のみで物語が進んでいきます。【地の文】の代わりになるのが、構図・アングル・ズーム・陰影・音楽・風景などで伝えられる非言語情報。
小説に比べると、【台詞で表現されていること】が圧倒的に少ないのです。
この点が、本当に勉強になります。文章では、そのような非言語表現を一切使えず、文字だけですべてを伝えなければならないので、つい【説明がち】になってしまうからです。
一様では無い人間の内面のありようを、「嬉しい」「悲しい」などの一般化された単語に、たやすく当て嵌めることはできません。日常生活においても、他者の内面を読み取る手がかりは、ふとした目の動き、横顔、後ろ姿、動作のスピード、その人が佇んでいる場所や、身にまとっているものなど、非言語による表現がほとんどです。
取材相手の「その人らしさ」をほんの一部でも文章に映し出したいと思ったとき、大切にしているのは、その人が発する「言葉」だけではありません。ふとした動作や仕草、風貌、表情の移ろい、空間などを事細かに観察し、淡々とデッサンすることによって、立体的に浮かび上がる情緒があると思うのです。
演劇のもつ身体性と即興性に肉薄したい
演劇鑑賞も、文章の表現を磨く上で大切な経験だと思います。豊富に時間がある学生時代に、もっともっと数多く観ておきたかったです。
数少ない演劇鑑賞のうち、もっとも強烈に記憶に残っているのは、アルメイダ劇場が赤坂ACTシアターで公演したシェイクスピアの『コリオレイナス』(2000)。主役は、『ハリー・ポッター』シリーズのヴォルデモート役でも有名なレイフ・ファインズでした。
あの日、舞台で感じた対面でしか伝わらない空気の振動、嗅覚や触覚でも感じる場の迫力、空間と時間を共有している感覚……これらは印刷された文字では、どうあがいても再現不可能です。
しかし、だからこそ、演劇のような「場の感覚」を文字でどう表現したらよいだろうかと必死に悩むわけです。それが、私にとっての「文章を推敲する」という作業です。何年経っても、全然うまくいかないのですが……。
1960−1970年代の錚々たるクリエイターによって生み出された物語を観て、芸術によって【人間の内面を表現すること】【他者の内面に触れること】にますます惹かれていきました。その憧れを胸に、これからも【他者の物語を書く】ということに挑戦し続けていきたいですし、あの作品群から教わった人間の内面の奥深さを、ほんの少しでも描ける文章力を身につけたいと願うばかりです。