【はじまりの島】上映会@湯河原リトリート"ご縁の杜"(22/04/24)
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琉球世界開闢神話の地、「神の島」とも呼ばれる久高島を題材にして、後藤サヤカさんが2012年に制作したドキュメンタリー映画『はじまりの島』の上映会に参加してきました(2022年4月24日@湯河原リトリート「ご縁の杜」)。
(下記リンク:映画制作当時のサヤカさんのインタビュー映像付き「はじまりの島」予告編)
塾の仲間たちが創り運ぶ場
この度の催しは、ともに私の親しい友人で、湯河原にお住まいのしらとりしほさんと、東京在住の高田由紀さんが開いてくださったものです。
彼女たち2人(とサヤカさん)とは、2016年から19年まで参加させていただいていた「藤田一照仏教塾」で共に学んだ間柄。
これまでは、この「はじまりの島」の上映会を一照さんが住まう"茅山荘"で開催したり、また、サヤカさんの2作目のドキュメンタリー映画『Buddhist 今を生きようとする人たち』上映会でのトークセッションに一照さんをお招きしたこともありました。
そしてこの度、一照さんの下で学んだ友人たちが主体となって、彼女たちだけで開かれ運ばれた場に立ち会えたこと。同じ学びを共有した仲間のひとりとして、とても感慨深いものがありました。
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<時>が舞う…舞の道 観音舞
今回のイベントでは、映画上映に先立って、柳元美香さん (「舞の道 観音舞」家元)による「観音舞」が、この場への奉納というかたちで舞われました。
ジャンベのゆっくりとしたリズムに乗って、臙脂色の装束に、頭に花飾りをつけた、美香さんはじめ12人の舞手さんたちによる円舞、そして舞手さんたちの輪の中に入った美香さんのソロの舞…。
初めて目撃した観音舞を前にして、"意味"や"定義"で理解しようとする考えが立ってきました。「舞手さんたちの、あの手の動きはどういう意味があるのですか?」といった感じで。初めて体験するものですから、そのように理解したくなるのはある意味当然なのかもしれません。
でもその後すぐ「この舞は、そういう"理解"で分かろうとするものではないのではないか?」と思いました。「観音舞とは、〇〇である (観音舞=〇〇)」という図式に乗せて理解しようとする時、"とは"に分けられた「観音舞」と「〇〇」は違うものですから。
そんな考えが手放され、観音舞を「観音舞として」美香さんたちの舞をただ観ていると…これは
<時>が舞っている
ものなんだなと気づきました。
『はじまりの島』の映画の中で、久高島に住む女性が島独特の時間感覚のことを語る「時間があって、ない」という言葉。"時間は過去から未来へ向かって流れている"という、これまで慣れ親しんだ時間感覚とは違う、
「過去も、未来も、いまここの時」
「時間という概念はなく、ただ<時そのもの>が今」
という感じを伝えようとする言葉だと感じましたし、観音舞も、<時そのもの>が美香さんたち舞手を舞わせていると感得(観得)しました。
ところで、キリスト教の聖句で私がいちばん好きなものの一つに、
という言葉があります。
いまここの時を映した、舞手さんたちの手足の動きや立居振る舞い。それはまさに「いまここ」であるが故の"<時>の必然性"からそうなっているということ。そして、彼女たちの舞と出会い観ている私たちも、その必然の中にいる…。
つい先ほど「観音舞は〇〇とは違う、観音舞は観音舞」と書いたばかりなのですけれど、それでもあえて自分が体験したことに近いと思ったのは、京都の「東寺」にある、21体の仏像群が"立体曼荼羅"をなす様を、その威容に圧倒されて口をポカーン…と半開きにしたまま日がな一日眺めていた時に、
「僕が時になってしまった」
と感じたことでした。
催しから時間が経つにつれて、観音舞と出会った"衝撃"がだんだん深くなっていきます。観音舞のことを"言語的にも理解"する助けになるように、美香さんのインタビュー記事を下にリンクしておきます。
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島の人が語れない島を語る女性
久高島のドキュメンタリー映画『はじまりの島』を何度も観るたびに印象に残るのが、「"心がバクハツしそうな時"に久高島に渡る旅行者の女性」の話。
という考えは、彼女自身にとってはジレンマ、葛藤なのかもしれない。その葛藤を心に携えた彼女が語ってくれる久高島は、島に根を張って生活を営んでいる住民が意外となかなか語れない久高を、雄弁に物語っているように感じます。
神と人とが共に暮らしているのが久高島。久高に住む人たちは、その"神性、聖性、霊性"をまさにいまここで、距離ゼロで生きてしまっているがために、取材に訪れたサヤカさんに「久高島の魅力とは?」と問われると、必ずしも「言葉で上手に」語るのが難しいのかもしれません。
『はじまりの島』という映画にとって、「ジレンマという距離をとれることで久高島を語れる」この女性の存在はとても重要で、彼女を登場させることで、久高のスピリチュアリティを伝えるこの映画の魅力がより重層的に、立体的なものになっていると感じました。この久高ツアラーの女性にスクリーンを通して出会うたびに、彼女の人生に幸多からんことを祈ってしまうのです。
ヒモをまとって変わった晃太郎さんのギター
映画上映後には、サヤカさんのパートナーでクラシックギタリストの西下晃太郎さんによる奉納演奏が行われました。
晃太郎さんとは、つい先日にも京都でお会いして、"ヒモトレ"がテーマの「京都からだ研究室」講座でご一緒したところでした。
わずか一本のヒモを身にまとうことで、本来の身体がイキイキと目覚めはじめる様子、ことに音楽家、楽器の演奏者のヒモトレ実践による音楽的表現の変化・深化には眼(と耳)を見張らされました。
さっそくご自分でもヒモトレを試してみた晃太郎さん。その音の変化を、私も直にお聴きしてはっきりと感じました。
弦をつま弾く右手のタッチがより繊細でソフトに。音と音との連なり、フレーズからフレーズへのつながりが、とてもなめらかになりました。
この日に演奏してくださった、久高島の内間新三"おじぃ"が作曲した島唄をギターのためにアレンジした『久高通い船』や、アイルランド(ケルト)の伝統的な謡(うたい)の曲、それらの曲自体がもっている微妙な感情の揺れまでもが浮かび上がってくるような、素晴らしい演奏でした。
自由で自発的な語らいの時
最後に、この催しを主催してくださったしほさんと由紀さんがホスト役になって、サヤカさんを囲んでのトークセッションと、シェアリングタイムがありました。
サヤカさんが作った2本の映画、『はじまりの島』『Buddhist』の上映会では、映画を上映して、お客さんがそれを観て、それで終わり…ではなく、ほぼ必ず、感想を皆で共有するこのようなひと時が設けられます。
これまでの上映会でのトークセッションで何度もサヤカさんが語ってきた「2度の震災体験で身体に起きたこと」や、『はじまりの島』に寄せられた様々な感想・意見・反響を受け止めきれなくなって消耗してしまったこと…など、私もこれまでずっとサヤカさんの語り口を間近で観てきた中でも、「言葉による表現」がずっと彫り深くなっていると感じました。
ドキュメンタリー映画『はじまりの島』では、久高に暮らす普通の人たちの素朴な日常生活をありのままに観て映し取ることを通じて、その生活の中に、様々な宗教として教義が体系化される以前の、原初的で素朴な宗教性・霊性がありのままに共存していることを観せてくれます。
ところが、まさに今年2022年になって、サヤカさんが最近知り合った人を通じて「久高島に伝わる霊性・聖性それ自体をよく知って、学んで、伝えていってほしい」というメッセージを受け取ったのだそうです。
サヤカさんが最近行った、この『はじまりの島』を題材にして"星読み"と接続する「オンライン・リトリート」という取り組みでは、サヤカさんが
積極的に語り手となって、久高島の聖地各所をめぐるかたちで、久高の霊性をサヤカさん自身が学び直し、またそれを人たちに伝える体験をなさったということです。そんな経験が、この場でのサヤカさんの言語表現の深化につながったのでしょう。
その他、この場を同じくした人たちからも、サヤカさんやしほさんたちに「皆さんいかがですか?」と促されるまでもなく、皆が感じたままを自発的に語り出す様子が、とても素敵でした。
観音舞の美香さんが語ってくださった、「沖縄各所に点在する「御嶽 (神さまへの礼拝や聖地を遥拝する聖なる森) は、"自分が行きたいから"行っても悪くはないのだろうけれど、もともとは"御嶽に呼ばれる、招かれる"というような必然性がなければいけない、だからこそ聖地なのだ」というお話が、とても深く印象に残りました。
また、
とか、
という感想を伝えてくださった方もいらっしゃいました。
場を共にした人たちへのラブレター
最後には、しほさんが呼びかけて、集まった人たち全員が大きな円座になって、いまここの呼吸を静かに分かち合う短い瞑想的なひと時がもたれて締めくくられました。
上映会は、集まった人たちによってその度ごとに雰囲気がまったく異なるものになります。今回も、素敵な優しい気に満たされた人たちが集まって、唯一無二の時間になりました。それはまさに、会場となった「ご縁の杜」さんの在り方にふさわしいものでした。
このレポートは、かけがえのないこの時と場を共有してくださったすべての方たちへ書いたラブレターです。
皆さん、ほんとうにありがとうございました!
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