【吉村均先生 出版記念講演会】聴講レポート・感想
吉村均先生の最新刊、
『チベット仏教入門 - 自分を愛することから始める心の訓練』(ちくま新書)
の刊行記念講話は、
「この様な本を出しておいてからこんな話をするのも何ですけれど、「仏教は、本を読んでも分からない」ものなのです」
という吉村先生の笑い話から始まりました。しかし、これはジョークでも何でもなくて、仏教は"そもそもそういうもの"だからです。
本日の90分の枠の中で、吉村先生は「なぜ仏教は"本を読んでも分からない"のか?」についての説明を、詳しくかつ要領よく簡潔にまとめて伝えてくださいました。(2018年11月12日@東別院会館)
〔チベットと日本の仏教伝統は、意外に近い〕
チベット仏教の伝統的な僧院教育は、インドのナーランダー僧院の学習法に基づいていて、ナーランダー僧院には中国に650巻もの経典を持ち帰った玄奘三蔵が留学していて、その玄奘の直弟子となった道昭が日本法相宗を開いたことで、ナーランダー僧院の修道法が日本にも伝えられた。
また、弘法大師空海が中国で学んだ密教と、チベット仏教最古の宗派、ニンマ派の宗祖「グル・リンポチェ」ことパドマサンバヴァ(蓮華生)がチベットに持ち込んだ密教は、ほぼ同時期のものであること。
いま現在チベットで実践されている仏教には、ヨーロッパ流のアカデミックな仏教研究が導入される近代より以前の、弘法大師空海や道元禅師や親鸞聖人が学ばれたような伝統的な「仏道」としての仏教の学び方が残っていて、チベット仏教の伝統を知ることで、空海さんや道元さん、親鸞さんの教えが一体何を言っているのかも分かるようになる、ということです。
〔"道"を歩むには、道順が大切〕
仏教が、伝統的には「仏道」であるからには、道を歩む"順番"と、道案内としての"先生、師"の存在が不可欠。
本日のご講義でも、それから吉村先生の新刊の中でも何度も繰り返し強調されているのが、
「人身受け難し、今已に受く」
という言葉。
これは、チベット仏教に特有の、ということでもなく、日本仏教での「三帰依文」のいちばん最初の言葉だから、ということでもなく、いまここで人間として生を受けて存在して、仏法を聞くことができるのは、宝くじの1等が当たる確率よりもはるかに稀少で、天文学的な奇跡であることにしみじみ気がつくことが、あらゆる仏教の教えに共通する、仏道の歩みのいちばん初めの出発点なのです。
また、「仏教は本を読んだだけでは分からない」の別のココロは、"仏教が分かる(分かった)"というのは、
①仏教の教えを聞いて、
②それを言葉として理解し、
③身をもって実践して
(この3つを「聞・思・修」という)、
物の見方や考え方が変わる体験をして初めて「分かった」といえるということであり、その体験をした人の導きから自分自身で気づいて身につけていく、ということです。
〔紛れもなく「聞法」〕
ご講義の最後の時間には、チベット仏教で実践されている心の訓練法「ロジョン」の、呼吸を手がかりに行う慈悲の瞑想「トン・レン」を皆で実修しました。
吸う息で、他者や自己の苦しみを"黒い煙"として受け取り、
吐く息で、本来の自己のポテンシャルを白い光として分け与える。
吉村先生は、各地のお寺さんに依頼されて講演を行う際、そのお寺さんが幼稚園や保育園を運営されている時は、園児やその保護者にもこの「トンレン」の瞑想を勧めているのだそうです。
「いじめ」の問題はとても深刻ですが、現実問題としていじめを完全になくすことは不可能かもしれない。
それよりも大切なことは、その子がいじめを受けて、誰の助けも得られずに周囲から孤立していたとしても、
彼・彼女自身が今ここにいることの圧倒的なかけがえのなさに気づいて、どんなに周囲から無視されても決して自ら死を選ぶことのない子に育つ
ことだからです。
以上のように、本日の講座は、新刊の宣伝でもなく(結果的にそうだったとしても)、チベット仏教のプロモーションでもなく、現代社会に生きる私たちにとって仏教が必要であることを説く、紛れもない「聞法」のひとときでした。