はじめましてポートフォリオ
はじめまして、
このNOTEは、2つの目的を持って41歳女性が文字を綴る場所となります。
<目的1>
マインドマップのような役割を担う場所
<目的2>
ご縁を紡ぐための人生のポートフォリオ作り
具体的に言うと、今後の人生で新しい人と出会って、自己紹介がてら私のことをざっくりと確認できる場所がある。そしてそれを名刺に反映できるプラットフォームを作りたい、そんなイメージでNOTEを作りました。なので表題にも"ポートフォリオ"という言葉を選んでいます。
私の書いた文章の多くは会社の文章として掲載されたけれど残っておらず、私が書いた教材の一部は、その著作権を会社が持っていて名前がないので、職務経歴書でご覧になってくださいというと簡素で味気ないものになるのがネックでした。そこを補完できるものとして、ウェブサイトを作る人がいますが、特にコンテンツも多くないのでしっくりこないんです。
ということで考えたのがNOTEに私という人をポートフォリオでまとめておくこと、そして定期的に多様なトピックを介してその思考を公開してストックすることでした。
結果的にそれで「わたしってこんな人です」とやんわりと伝えることができたのであれば、このNOTEは大成功だなと思っています。
ABOUT ME
インドに飛んだ人です
私は2歳前後から空を飛んで国を出ました。
父の駐在についていく人生の始まりで、私は高校3年生までそういう人生を過ごしてきました。最初の駐在地は南インドから始まり、日本を間に挟みながら東南アジア、米国と3か国に約3年ずつ住みました。転勤族の子ども特有の学校経験数は合計10か所。幼稚園は3か所、小学校から高校までは2か所ずつ、大学生になって入学と卒業を同じ学校でできたという感じです。
人生で一番きれいなイギリス英語を話していたのは私が4歳くらいの時なのではと推測されます。
学生時代
中学生でシンガポールに行くことになり、初めて戦争の歴史が自分の生活を脅かすことを経験。空から生卵が降ってくるというインシデントに見舞われました。からゆきさんとか、日本がシンガポール人を大量虐殺したとか、そういう勉強をして少し原爆の被害国日本可哀想みたいなマインドセットが薄れたんですよね、もっと自分の目で世界を学ばなきゃと思ったのもたぶんこの頃くらいだと思います。
私の人生を変えるような経験になったことをあげるならば、高校の時に米国で同時多発テロを経験したことでしょうか。多くの人の人格がイラク戦争が開戦して変わっていくさまは、当時ティーンだった私を絶望させました。教育者である人もただの人で、私にアメリカは絶対に屈しないとか突然怒鳴ったりするんです。いかに人は平和を対外的には願っていたとしても、いざとなれば罪もない人を平気で攻撃したりする「人の弱さ」を知りました。そして人々を戦争に駆り立てるのはマスメディアなのかもと思い、大学ではそのマスメディアを学びたいと考えるようになりました。
そんなわけで、米国の大学に進学してほしいと謎に願う両親をアメリカに残し、単身で日本に戻ってメディアを学べる大学に入学しました。偏差値とかランキングとかというもので考えれば、アメリカの大学に進学しないという選択肢はあまり賢くなかったのかもしれませんが、あんな狂っていくアメリカを見ていると、とてもじゃないけれど親元を離れた知らない州で、一人ドミトリーに入ってよく分からない勉強をする自分が想像できませんでした。
結局、大学時代は民放の報道局でADをして厚生年金を払うくらいには、大学とバイト先の往復で家に帰れない特殊な日々を過ごすなど、マスメディア漬けの日々を過ごして大学3年生を迎えた自分は、日本らしい就活に向き合うことになります。
やりたいことが見つからなかった20代
同時多発テロの偏ったメディア放送とアメリカ人に疲弊して帰国した私も、
気が付けば多くの事件や国際問題にADとして触れる中で報道というものに絶望感を抱くようになります。どういう仕事が自分に合う仕事なのかも分からないまま言われるがままに、なんとなく就職活動をしてしまった結果、気が付けばバリスタとして店舗に立っている毎日を送っていました。
家族からは「どうして大学を出てまでお茶くみをしているのか」と心無いことを言われてしまう始末で、決して喜んでもらえる就職先ではなかったですが、私にとっては学びの連続であり、人を大切にすることを教えてくれた
とても大切な学び舎であることは変わりません。
長い間、親の会社名や出身校、自身の大学名など、見栄の世界で生きてきました。しかし接客業という場所にそういったものの価値は実はあまりありません。アカデミックなお勉強は苦手でも、何かに軍を抜いて秀でた知識や技術がある人だったりもいます。人のニーズを汲んだり、怒らせないクレーム対応などは圧倒的な人間力が試されていて、実はこういったスキルのほうが大人になると役だったりするんですよね。学校では到底学べない人間力が常に試される、1日として同じ日はなくて毎日何かしらトラブルが起きるというのが接客業だと思います。
当時の面白エピソードとしては、突然入ってきたホームレスの泥棒を無心で追っかけて警察に突き出して警察からお説教されたことでしょうか。自分的には良いことをしたと思っていたのに「何かあったらどうするつもりだったの?」といわれて何があるのか理解できず「何があるんですか?」と聞き返したら「世間をナメすぎだ」といわれて唖然としました。殺されるかもよという意味だったそうで、それからは気を付けています。
そしてある時には、組の長とも仲良くお喋りをするようになりました。「あの人指ないけど大丈夫?」と言われて気づいたのは、その人には指が数本欠けていました。そうか、何か責任をとったのかと昭和のドラマで学んだ知識を目の当たりにしました。人は見た目だけで判断しがちですが、私にとってそのおじさんは全く害はないし、むしろいい人だったんです。そういう普段出会わない人に出会えるのも接客業ならではの経験でした。
また、社員として自分と違う立場の人に責任を持つということも経験しました。社会人1年目でアルバイトの女の子にストーカーができた時は勤務時間外で彼女を護衛して家に帰しました。社会人2年目には、シフト中に急性盲腸でうずくまるアルバイトの子が出て、誰にも意思決定を託せないので自分で判断をして先輩社員を多店舗から呼び、私は救急車にのって病院に付き添ったなんてこともありました。お店の運営もしないといけない、この子の命も守らないといけない。そういう自分の責任下であらゆる可能性を考えるという経験は大企業の中で務めていてはなかなか巡ってこない経験だと思っています。
こう振り返ると、接客業として歩んだ約3年の月日は充実していました。
そして社会の厳しさや不平等さを痛感した日々でもありました。結局、そんな経験の中でも自身でやりたいことが店舗運営で見つからず、色々あった結果に次の舞台に移ることになります。
30代序盤、メンタルブレイクする
幼児英語教育 × 教材企画
それが私の次の舞台でした。子どもの年次にあった表現やトピックを選びながら指導項目を選定し、フラッシュカード、本、ビデオ教材など、多岐にわたる教材を制作していくという作業が私の仕事でした。ここでは、大学生の時に学んだ文章校正法の技術が役に立ちました。そして初めて自分の学生時代の経験が仕事として活かせること、また出版の基礎知識を身に着けられる環境に大いにワクワクしました。
接客業ではもらえないものがそろった空間も新鮮でした。
はじめてのオフィス、自分専用のデスク、自分専用のノートパソコンというオフィスワーク環境を得られたことに満足感を得る一方で、毎日同じ人に囲まれて、淡々とタスクをこなし、意味の分からない無意味な会議に参加し発言権もなく、なによりもエンドユーザーの見えないものを作り続けることにすぐに虚無感を覚えるようになります。特に苦しかったのは旧式な人間観海でした。仕事がプロダクティブか否かよりも上下関係に気を遣い、勤続20年強のお局様の機嫌を最大限にとる給湯室と、お弁当を毎日決まった時間にぞろぞろと全員で買いに行くルーティーンワーク。ご飯くらいは静かに食べさせてほしいけれど、先輩の恋愛話と人の噂、次のバカンスのご予定に合いの手をいれて60分が過ぎるのを待つ。歯ブラシをしてまた虚無のオフィスワーク。「私は一体、何をやっているのだろう」とは思うけれど、ただただひたすらに前を向いて走り続けました。本社の人として全国に出張も経験しました。出張をすれば経費で良いホテルに泊まれるし、ご飯も経費で落ちる。経費の魔物とはこれかと思いました。会社では一番下っ端でも、地方の支店に行けば本社の人ですから、幹部級の手厚い扱いを受けながら、裏では悪口を言われ、本部に戻ればクレームが来ていたりすることもありました。大人って大人って。。。どうして本当のことを誰もはなしてくれないの?と孤独を感じてしまった自分の弱さに気付くことになります。接客業で働いていたころは、面白くないことがあるとアルバイトの人ですら私に直談判してきたものです。
そんな環境を懐かしく思いながらも、教育という責任を伴うコンテンツに携わるものとして昼夜問わず、週末返上で働きました。先輩が自分のペースで定時ギリギリ、締め切りギリギリで渡してくる校正用紙を終電ギリギリまでにらめっこして100人くらいいるフロアの最後の1人になることも多くありました。鍵を閉めて守衛さんに渡す仕事もお手の物でした。
どんなに頑張っても、失敗は私が責められるし、旨みは全部先輩に持っていかれる日々を感情を殺して続けているうちに、すっかり心を病んでしまっていた私がいました。内科にかかったら精神安定剤を処方されていた。そうか、私は病んだのか。人生いろいろ経験しましたが、初めてお薬を出されるという経験をしました。この薬だけは絶対に飲むまい、そうしてこの職場も離れることになります。
30代中盤は海外へ飛ぶ
心の健康を回復することが急務だった私ですが、当時両親がオーストラリアに駐在していたこともあって甘えて2か月ほど療養をさせてもらったことがありました。この経験が、のちに私が考える「幸せ」のヒントをくれることになります。
私が2か月療養した街、シドニー。
社会人は朝早くから会社に行き、午後3時には帰宅します。モールと呼ばれるショッピング街は中心部以外は18時ごろには閉店してしまいます。夜は多くのバーで大騒ぎしているおじさんに出会いますし、週末には母親と一緒にファーマーズマーケットで新鮮なオーガニックの野菜とジュースを買うことができます。いつも空は真っ青で、目の前には海が広がります。
ビーチではのんびりと読書する人、犬と散歩する人などみんなが各々楽しそうに過ごしているのです。のんびり、ゆったり、おばあさんがテニスをしている。なんて良い余生なのだろうか。私もこんなしわくちゃで笑顔のおばあちゃんになりたいなと思いながら過ごしていたら、ゆっくり寝れるようになりました。
それからしばらくして親が日本に帰国します。もう親も年齢があがり、引っ越しの手伝いをしにも行きました。海外引越にも慣れたもので、日通さんに頼まなくても自分でせっせとパッキングして段ボールに内容物を書ける大人になった。それは海外駐在に同伴した家族だからこその特技なのかもしれないです。
その日を境にして、海外で働くことを諦めていた自分に少しずつですが気が付き始めました。長年ずっと働いてみたかった日本以外の国。今行かなければ一生行けないのではないかと思ったのもこの頃です。帰国子女として父親の力で海外に住むことができましたが、私はただの扶養家族であり、その海外の実績は父が作ったものです。しかしながら、帰国子女というのは多くの場合勘違いを起こします。自分が海外で勝ち抜いてきた、生き抜いてきたんだと。でもそれは学校という社会であり、資本主義の社会ではないのです。
だからこそ自分が今、海外にでてどれくらい仕事ができるのか。それを試したい気持ちがありました。ただし、当時の年齢と仕事の経験で行ける国はとても限られていました。白羽の矢が立ったのがシンガポールのお隣の国、マレーシアでした。
マレーシアは多言語国家で、大体の都市部では英語が通じます。マレグリッシュというちょっと特徴的な英語も2種類あって、シンガポールで話されるシングリッシュに似た中華系のイントネーションとマレーシア語と英語がごちゃ混ぜになったような英語です。どちらにせよ、イギリスの領土だった歴史を持つこの国が話すのはイギリス英語を基礎として発展した自国の英語です。多様性だとか、ダイバーシティだとかよく言いますが、この国を経験すると異なる人種が平和に平等に生きることの難しさを痛感しないわけにはいかないだろうと思います。
そんな国で私はオフィスで唯一の日本人マネージャーとして日系フリーペーパーの執筆、インタビューや公式文章の校正をはじめ、日本から商品を輸出するために貿易会社とやり取りをしたり、チームメンバーに日本人の思考の仕方などを共有しながら基本的なチームワークについて理解を求める作業をしていました。
日本から来る技術者のビザの手配をローカルスタッフと協力したり、求人広告を出して面接することもありました。とにかく何でも屋でした。日本人のスタッフの身の回りのお世話ごとも私に来てしまうので1日の勤務で自分に任されたことをやる時間がない日も多くありました。週末も昼夜もお構いなし、プライベートの電話が鳴りやみませんでした。日本で言えば、ブラック企業だと言えるでしょうが発展途中の国でそんな悠長なことを言っていられませんし、ローカルスタッフからの信頼を勝ち得るために全力で走り切りました。
30代後半は独立心をもって
私がマレーシアで働いている間に父方の祖母が亡くなりました。
当時、家族も何もかもを置いてマレーシアに単身出てきた私。これから本当にこの国で家族を置いて生きていく覚悟があるのか?楽しいながらも未来に不安を覚えるようになっていました。
我が家の家系は歯が弱く、医療面でも不安が残りました。私の歯の治療も満足にできないマレーシア。大病をしても誰も看病してくれる人もいない広いコンドミニアム。中学時代の友人が駐在妻として近くにいてくれたことが
どれだけ心強かったか。彼女には頭があがりません。そんな彼女だって、いつかは日本に帰ってしまうのです。
そんな矢先、ある女性と話す機会がありました。「人事やHRの仕事を活かして、国際的な舞台で働きませんか?」と声を掛けられたのもそのときです。
私の働く舞台は日本に戻ることになりました。前と違うことは私がフリーランスになったことと、私のチームメイトが多国籍で面白いチームになったことでした。私の主な仕事は人材紹介斡旋業というもので、国際的なフィールドで働きたい英語話者を相手にした仕事です。それに加え、海外企業向けのコンサルティング業務をメインとしてチームメンバーがマルチタスクでこなしていたこともあり、私もポジションが必要なところに入る日々が続きます。欧米のIT企業の日本支社のCRMという仕事を任されてセールスフォースの使い方を1から学んだのも新鮮な経験でした。毎週何個も海外本社、支社のエンジニアやマネージャーとのMTGが入り、私が話せることは何もないのですが、営業部隊と調整をしている中で私はその内容をCRMシステムに正しく落としていくことをしていました。
マレーシアとは全く違う感情を抜きにした資本主義ビジネスは、日本人のイメージするシビアな欧米会社とのやりとりそのものだったと今では思います。インテリでみんな学歴の話をしょっちゅうするし、あの人の英語は3流だとか、どこどこのワイン畑にいったんだけれど、ミシュラン三ツ星のイタリアのあそこのレストランが懐かしいみたいなおじさんたちの自慢話を聞きながら、しずかにCRMシステムを触る。この生活を経て本日に至ります。
現在
社会人折り返し地点だからこそ今
4000字も綴ってようやく私のポートフォリオにも終わりが見えてきました。そう、今の私の話をしていきます。
「まわり道社会人」
これが私の生き方だと思います。上手じゃない、不器用な人生かもしれません。それは目的がなかったから?それとも私の生き方がそもそもユニークだったから?それは私にもよくわかりません。
元人事だったころの私は思います。短くてかっこいい、シンプルで歯切れのよい職務経歴書であればどれだけ良かったろうか。私に圧倒的に足りないのは「肩書」なり「プロジェクトの数」なり「専門性」だと思います。40歳にもなれば、マネージメントした部下の人数なんてものも魅力的に映るんです。でもそういった世界線で私はもう到底、みなさまと肩を並べることなんてできない人生を歩んできた自覚はあります。後悔もないと言えばウソになるかもしれませんが、今までの人生から学ぶことも私には必要だったことだとようやく思えるようになりました。
こんな紆余曲折した人生を振り返って思うのは、私がこれからも人生を通して大切にしていきたいのは、人肌に触れること、社会活動でいうところのエンドユーザーが見えるところに身を置くことだと感じています。
私の性格はお節介です。人が本気で悩んでいるならとことん寄り添いたいと思ってしまう。これで痛い目にも何度もあってきて、少しは人を見る目を養ってきたつもりでいます。
人の想いが詰まったものに触れること
人の気持ちが思考に触れること
愛を与えてくれる人は、愛をもって返すこと
こういった信念をもって人に触れていればきっと、良い人とこれからも巡り合い、良い仕事ができる、良い生き方ができると思っているので、同じような人たちに出会えたら嬉しく思います。
今の日本は核家族化が進み、隣の他人に興味がなくなっていく不思議な社会。でも人は人をより一層に求めていて、繋がろうとする、そんな変な現象が社会的にもSNS等で見て取れます。もしかすると、これからの社会において、昔に大切当たり前だったものがより付加価値を高め、ビジネスとして注目されるのでは?と思っていたりもします。
具体的に言えば、「お金で繋がる」「利益で繋がる」「人格はどうでもいい」みたいな物質的な関係が世界を育ててきました。もちろん、そういった無機質な人が増産されるなかで、人は実は信じられる人を求めているんじゃないかなと。宗教なんてものはまさにすがるものですし、アイコニックなリーダーやアイドルもそういった日々の辛さを忘れる救世主なのだと思います。これから先、もっともっと人と世界は対立していくでしょう、利益を奪い合う戦いです。でも、戦争が、宗教が、歴史が、対立するなかで人はまた繋がりを求めて、安全で、信じられる、本当の物や人を探しているような気もするのです。
結局それがどういうビジネスで、私が何をしたらいいのかというコンテンツを私は理解しきれずにいます。ただひとつ、今までの社会人人生を振り替えた時、私は何をしたいかよりも、誰としたいかを考えることのほうが合っているのだと思うようになりました。
一緒にやる人がダメなら何事もダメなんです。私にとって、人との繋がりや会話が私の人生の大半を豊かにするヒントをくれていて、人との関わり合いが自分を豊かにすることに直結している。誰かを大切にできる気持ちが次の仕事や世代を育てていく。私はそういう類の人間なのだと思うようになりました。だから専門性を中心に仕事を考えるみたいなことができなかったのかもしれないですね。
長く細くできることより末広がりになること
私の幸せは人が笑ってくれることです。そして、私の活力は人が向き合ってくれることだったりします。決して一方的に怒られることは好きではないけれど、そこから生まれる課題に向き合うこと、言い合えることが私の中での大切な原動力になります。そして知らない自分の国、日本というものを見て人に出会いたいなと思っている2025年です。
もしその中で誰かがこの変わった職歴を面白いと思ってくれて、こんな風変りな40代を受け入れてくれる場所があるのであれば積極的に自分のできることを考えて自分の幸せにも繋げていきたい。それが私の現在の理想でもあります。
今後も私の頭の中を文字化していくので、興味のある方は今後も目を通していただけたら嬉しいです。