耳を傾ける民主主義へ
東京都の選挙を見ながら、大阪都構想の住民投票のことを考え、沖縄の住民投票を思い出していた。忙しなく巡る言葉と情景にただただ掻き立てられる感情。
ばくっとした捉え所のない危機感とそれを急き立てる問いの数々。
僕らはどこに向かってるのか?
たどり着いた先で何が待っているのか?
これは進まざるを得ない道か?
逡巡する思考の中で僕に見えてきたのは、「民主主義」という建前の中で「自由」を拒否するかのうよう振舞う「市民」という役割の姿だった。
持続不可能な行政
twitterにも投稿したこちらの図。構造は簡単で次の3つのステップが繰り返されている。
1、量に頼った評価を行い、行政の質が下がる。
2、住民が不満を感じ、「行政改革」を掲げる政治家が支持される。
3、政治家が行政の無駄を削り、行政の質が下がる。
行政改革は行政組織の効率化と経費削減を意図するものだが、効率的にするのが難しい仕事にこそ、住民が求めている行政サービスがある。
福祉や教育、医療には費用対効果で求めることができない人間存在が時間をかけて変容していく価値があり、投資すればスケールしたり、指数関数的な成長が見取れるという単純な話ではない。
時間がかかり、効率は悪いが、「人間に必要」な支援を行うことができない仕組みが住民の不満を煽っている側面があると思う。だが、悲劇は続く。
効率化、経費削減を考える際に、いわゆる生産性を考慮せずにはいられない。生産性は「アウトプット/インプット」で表現されると思う。生産性を上げるにはこの式から同じインプットでアウトプットを上げるか、同じアウトプットでインプットが下げるかしかない。
同じアウトプットでインプットを下げる方向性の際たるものは行政の職員の数を削ることだ。だが、職員の定数を下げると時間をギリギリ切り詰めなければならない。ギリギリに時間を切り詰めるとマニュアル対応しかできないので、「お役所仕事」しかしてもらえない行政になっていく。
つまり、質まで含んだアウトプットは落ちている。
行政改革の効果を深く調べていないので、財務状態をどの程度健全化できたのかはわからないが、「人に必要なサービスを届ける行政」から、「政治家に言われたことだけをやる行政」へのシフトは着実に進んでいる。
そして、そんな行政を住民は求めていないのだからさらにコストカットは続いていくだろう。行政は倒産することはないが、誰からも必要とされず、いつか人々の生活の中から消えていくのかもしれない。
そして誰でもない、僕ら市民がこの構造を間違えなく支えている。
行政に関してさらに詳しく書いているのでよかったらこちらもご覧ください。
ニュースにならない政治家
政治家がニュースになる場合、ポジティブな出来事でないことが多いと思う。不祥事、賄賂、不倫。どれも見飽きたけどメディアは相変わらず垂れ流し続けている。
しかし、時々、「あの街灯は〇〇議員が付けてくれた」「〇〇議員がここの必要性を訴えてくれている。」といい仕事をしている議員が少なからずいることがわかる。
ただし、圧倒的にニュースにならない。それはそうだろう。議員が街灯をつけたり、地元団体の必要性を訴えたりするのは仕事として当然であるのだからニュースではない。
ただ、冷静にこの状況を見てみると「政治家は汚いもの」と思ってしまっても仕方がないし、ましてや国会答弁で支離滅裂な野次ばかり飛ばす議員がいたら論点のずれた議論をし続けていると言われても仕方がない。
実際に18歳にアンケートは次のような回答になっている。
4人に一人の18歳は今の国会の議論が噛み合っていないと考えているし、政策以外のやりとりが多すぎると考えている。すると、こう考えてしまわないだろうか?
「議員ってこんなに要らなくない?」
実際、議員定数は削減されている。大阪は顕著で平成23年は109の議員定数だったが、平成27年では88まで削減されている。無駄なら削ればいいだろうけど、本当に無駄なのだろうか?
民主主義の砦としての議会
僕らがこの間接民主主義と言う形を選んでいるのには理由がある。暮らす人の人数が多すぎて意見がまとまらないからだ。そこで、代表者を決めて議論をする場を設け、特定の立場の人が不利益を被らず、全ての立場の人にとって利益のある政策を目指しましょうと言うのが議会である。(と僕は思っている。浅知恵なので一応括弧書き。)
だから、議員定数というのは「議論に参加できる立場の数」だと考えられる。当然、立場が増えれば議論は複雑化し、訳がわからなくなる。「議論が進まない」という声が出てくるだろう。だから、議員の定数を削って、シンプルにしようとする。
議員定数が削減されれば、どうしても当選する人の数は少なくなる。支持基盤が厚い政党があれば、少数派は議員を一人議会に送るだけでも充分に困難だ。
議席が減り、議論に参加している立場が徐々に画一的になる。そうすると議論がスムーズになり、反対がなくなり、「議論がうまくいっているように見える」だろう。
そして、主権者である市民もうまくいっているように錯覚する。なぜなら多くの市民にとって、ここで言われる少数派は「出会ったことがない人々」だからだ。
LGBTという言葉が広がって、メディアでそういう方の声が取り上げられることはあるが、本当にそういう方にであって、本音の部分を聞いた人はどの程度社会にいるだろうか?
そして、この状況はさらに負の効果を生む。多くの市民がある政党に信頼を寄せれば寄せるほど、反対派の政党が「おかしな奴」扱いされて、その反対派たちは市民によって言葉を奪われていく。
学校生活を思い出してもらって、みんながある意見に賛成している時に自分は違う意見があると堂々と言えただろうか?もし、言えていたとしたら、その後どんな風な目にあっただろうか?
もし、あなたがその発言をした時に、先生が「それは大切な意見ですね。もう少しみんなで話し合いを続けましょう。」と声かけをしてくれていたなら、幸運だったと言えるだろう。
少し逸れてしまったが、多数派は次第に立場から信条へと変わっていく。同じものを信じられない人に対して分断が起きる。だから、立場が信条に変わった時、間接民主主義は簡単に独裁化する。
政党への支持がまだ脆弱なうちや信頼が小さいうちはそういうことは起こりにくいかもしれないが、このシステムが最悪な点は「市民間の相互監視」がだんだん強く働くようになることだ。
立場が信条になるを別の言葉で表現するなら、「考え(idea)」は次第に「自己(identity)」となる。馴染みのある考え方が、馴染みのない考え方を受け入れるのは考えを保留するという内的な訓練を必要とする。自己とは過去の考えの集積である以上、支持基盤が強くなるというのは、票を獲得しやすいということ以上に意味を持っている。
そうして、大抵の場合、少数派となった市民は自分たちが間違っていると沈黙するか、革命の声をあげ、狂人扱いされるかの2択を迫られることになるだろう。
歴史的事実でいれば、ヒトラーが独裁と言われた当時、ワイマール憲法は世界で最も民主的な憲法とまで言われていたそうだ。
ことの発端は?
僕の読みにくい文章を読み返してもらえばわかるように「画一的な議員の議論」これに尽きるのだ。僕たち一人一人が望む声が反映される政治を実現するには議会に僕たちの思想を持っている人材を送り込み、議会の場で議論してもらうしかない。
人と違うことを考える自由を僕たちが持ち続けるためには違うことを考える人たちでつながり、議員を送り込むしかない。ただし、その時に気をつけなければならない。
もし、少数派が多数派の声を切り捨てて進み、自分たちが多数派になる日が来たとしたら、それは結局、擦り代わりにすぎないのだ。そのことを自覚しながら進まなければ、同じ構造の加害者になって革命は終了するだろう。
主張する民主主義から耳を傾ける民主主義へのシフト
スピーディーな意思決定で、さっさと物事を進めていく。そんな行政が求められている。だが、それはブレーキを失った車と同じだ。誰も止め方がわからなくて、止まらないだけなのだ。
止まらないのと速いのは違う。誰でもわかるだろう。
難しい対立を乗り越え、協力していこうとする姿勢は極めて人間的なプロセスであり、ここに「ショートカット 」はない。もし、「ショートカット」しているつもりであれば、それは分断を深めているだけだ。
本当に早く多様性を尊重した意思決定を行うため必要なのは主張する努力ではなく、相手の立場に耳を傾ける努力だ。
なぜなら、相手の立場に配慮ができていれば、相手はNOを出さないはずだ。相手がNOを出すということは相手の譲れない点を理解できいないか、理解できていてもその声を自分の主張の中に反映させれられていないかのいずれかである可能性が高いからだ。
考えが子どもじみているというという批判もあるかもしれない。現実の社会の中で、驚くほど自分の利益を主張する人々を僕も目の当たりにしてきた。自分はもっと欲しい。もっともっとたくさんくれなければダメだ。
そんな声に付き合って疲弊してきたことも僕にはある。
だから、僕は維新の会を立ち上げた橋下徹さんの「ましな政治を選ぶしかない」という意見には大いに賛成している。ちょっとでもましな方を選ぶ。最高にはなり得ない。だが、もう少しましにする努力を僕らはできないだろうか?
それは政治家のみなさんにだけ課された宿題ではない。いうまでもなく、私たち市民がお互いの声を聞き合い、議会に誰を送り込むか、政党に何を掲げてもらうか、日々の共助の中で何が助け合えるか、などなど、市民にできることはまだまだある。
まだ諦めるには早いのかもしれない。